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成子 素人「もう一人の私 のこと」(後編) [性社会史研究(女装者の手記)]

も う 一 人 の 私 の こ と (後編)

   -「富貴クラブ」の女装者、小池美喜の手記-
                    成 子 素 人

【20】 後編のまえがき

  虚 構 の 約 束
 心も躰も別人格の
 もう一人の私に生まれ変わると
 恥知らずの女を演じ始める。
 …夜の灯り 幻想の空間…
 フェチシズムとトランスベスチシズム 
 華やかな彩り 着飾った女すがたへのナルシシズム。
 …燃えあがる肉体の慾情…
 むせるような化粧の匂いと
 妖しい美に魅せられた疑似異性愛を
 好む男に抱かれるだけの存在。
 虚構の約束の中で
 女になれた錯覚に酔い痴れ
 燃え果てる束の間のいのち。
 …非日常のこの世界…

 こんな詩を書いていた程、私は女装した自分自身に陶酔し、ますます濃い念入りな化粧をし、描いた眉一つで違った感じになるのを試しながら、「お立ち」をしてくれる者の気を引き、女装の「オネエ(女役」の愉悦に悶えるのが病みつきになっていた。

【21】 中野の「部屋」
 中野区中央の大久保通りに面したマンションの一室を借りたのは、確か昭和45年(1970)であったように憶えている。何階建だったか憶えていないが、相当の戸数の大きな建物でエレベーターもあった。6階で降り廊下になっている北側を東へ行った突き当たりの部屋で、入り口に「堀江茂」の表札が出ていた。ブザーを押して待つと、オリエさんが会員であるのを確かめて入室させてくれた。
 玄関を入るとリビングキッチンで、左手に流しがあって、トイレとバスルームは廊下からの延長線にある間取りで、この通路部分を仕切る形でカーテン地のような布が掛けられ、リビングは見えないようにしてあった。
 その仕切りの向こう側がリビングで、9畳分くらいあり、ソファーと低いテーブルを置いて、椅子が幾つか配置され、遊びのきっかけになるお喋りの空間となっていた。誰かがテレビを持って来たり、電話も入り便利になっていた。
 リビングからはそれぞれの和室に入れるような間取りになっていた。右側の廊下寄りの6畳は楽屋になっており、化粧台は姿見にもなる大鏡と椅子付きの三面鏡台があって、一度に二人の化粧が出来たし、押し入れも3尺と6尺のがあり、会員の女装用品を預かれるようになっていた。
 リビングを通り抜けた先の右が8畳で、南側にベランダがついていて明るく、左の6畳は西と北に窓があったが、この部屋はいつも布団が敷いてあって、話の合った者同士の閨ともなり、心ゆくまで悦楽の時を持てるようにしてあった。
 新しい「女装の部屋」は、62平方余り(19坪)の今までの所(早稲田諏訪町のマンション)と比べれば、たっぷりした広さであった。ここを借用するに当たり、私は必要費用の分担をしたので、特別扱いをしてくれたのであろう。細々とした女装用品を入れる2尺幅の引出しだけの小箪笥を買う仲間へ加えられ、楽屋にいくつか並ぶようにもなった。

【22】 芸者の衣裳を揃える
 ここに移る前頃から、網目の芸者島田も持てたことだから、出の衣裳という程でもないが、裾引きが欲しくなった。浅草の踊り衣裳の店なら安く買えるという話だったので行ってみた。仲見世から観音様の境内に入る辺りに店を出している衣裳屋の1軒を、ひやかしの心算で覗いたところ、声をかけてきた店の小母さんが、いやに面白い人で、つい色々と話をしてしまった。私の目が何を見ているかで見抜かれてしまったのかもしれない。次から次へと派手なものを見せられ、緋の長襦袢を作ることになり寸法を取られてしまったので、ついでに裾引きを拵えることになった。そこへは、三度か四度くらい仕立に寄ったかと思う。
 前にオリエさんに買ってもらったのは名古屋帯で、裾引きの衣裳には合わないと思っていた。あるデパートの呉服品の安売り会場でちょっとした袋帯を目にし、確か3万円代であったので買ってしまった。
 「緋の一丈」という芸者が帯の下に締めるものは、ゲイバーで教えてもらい、仲見世の呉服屋の店先にぶら下げてあったのを買った。肌襦袢なども襟を大きく抜いて着付けるには、普通のでは駄目なので、繰越4寸5分のを踊り衣裳の小物店で何枚か手に入れた。
 和装用の小物も、買い易そうな店があると、足が店の中に入ってしまい、結構、数は増えてしまった。
 和装をするには、腰巻、肌襦袢、腰紐、襟芯を入れた長襦袢、「緋の一丈」の上から帯を締め、帯枕、扱帯、そして帯〆と幾重にも体を締めつけてゆく。濃くした襟化粧と艶麗に拵えた顔、濡れたような黒髪の芸者島田、姿見に写して品をつくったときのナルシシズムは格別なものだった。形をつくっている間にすでに疼いている体は、「キレイよ」なんて云われるだけで、勃起が始まってしまうくらいだった。

【23】 洋装の支度
 和装は暑い時は無理で、専ら正月を挟んだ冬場だけになる。春から秋にかけては着付なんかの世話をかけることもなく、洋装の、娼婦スタイルの遊びの季節となる。化粧品もそれなりに今様の物になって、女装を始めた頃はドーランを使っていたのが、ファンデーションになり、パウダーも一色ではなく、アイライナーも黒の他に茶色で描けるのにしたり、眉を描く筆、紅筆、紅を掃くブラシ、アイシャドーなど色々で、化粧ケースは一杯になっていた。
 アクセサリーも、ネックレスやイヤリングなど入りきれないくらいで、ハンドバッグにはコティのコンパクトとルージュを入れてあった。この部屋に行く日を決めると、マニュキュアをするために爪を切らずに長くしておいた。ウィッグもウェーブのきいたロングを茶毛、ブロンド、赤毛と買いそろえた。他の会員に「欲しい」と云われて譲ってやったこともある。付け睫毛も黒い毛以外のものまで買っておいた。
 オリエさんの知り合いで、洋裁店をやっているという人が来た時には、黒のドレスを注文し、仮縫いもしてもらった。ハイヒールは銀座のアメリカ屋で、10センチのスパイク・ヒールの25センチのサイズを見付けた。そんな外出してもいいような姿で、リビングの床を歩いてみたりしたものだ。

【24】 新しい「部屋」のお披露目
 新しい「部屋」へ移れたので、そのお披露目をすることになった。集まりの日は少し早目に行ったのだが、風呂の順番待ちをする程、次々に会員たちがやってくる。その顔触れは、成子坂下や厚生年金会館当時の会員の他、今まで会った事もない人も多かった。若い子が増えていることから、会もますます隆盛になって来たなと思った。
 暑くはない時だったので、私は白塗りにすることにした。風呂場で胸の下辺から足の裏まで、白粉を塗り込んでおいて、紫の羽二重で目吊りをし、眉をつぶし、白粉下を顔と首の辺りへ刷り込む。髭の剃り跡と眉は、ドーランで地肌に近い色合にした上に、ファンデーションとパウダーで同じ肌色に仕上げてゆくと、顔の拵えの下地ができる。
 溶いた練白粉を刷毛で塗り、牡丹刷毛で顎の辺りまで肌に馴染ませて、白のパウダーで圧えてゆくと、眉も唇も真白の性別不明の顔が鏡に写っている。
 襟から背へ、首筋から肩、胸へかけてと、白粉下を刷り込む、白粉を濃くする所の下地を作る。そして、白粉刷毛の長い柄の方で、背中の方から塗ってゆく。風呂場で塗ったのと重なる様にして、胸も塗る。手が届きにくい背中などの白粉を肌に馴染ませる作業は、頼んでみると、白塗は面白いからと言って、誰かしら手伝ってくれる。
 腕も手首の辺りまで白くしておいてから、顔の拵えにかかる。白のカンバスへ女の顔を描き込んでゆくと云った方がいいかも知れない。頬に紅を掃き、目張りを入れ、女眉を描き、唇にルージュを引いていくと、女の顔が出来る。長い付け睫をつけ、鬢を描き足してから、網目の芸者島田をかぶる。女の顔が完成するまで、化粧台の前に座っている時間は、私が一番長かったと思う。
 諸肌脱ぎの浴衣のまま肌襦袢に手を通し、緋の長襦袢を羽織ってから、浴衣の腰紐を解いて足元に落とす。赤の腰巻きを締めたら、長襦袢の裾を決めて腰紐を締め、襟を決めながらおはしょりをして紐をする。オリエさんの仲間だったのかゲイボーイをしているらしい人が来ていて、着付をしてくれた。それも、オリエさんが口を利いてくれたからだったが、裾引きを着せてくれた。腰紐を締め、襟を直してくれて、胸の膨らみも作ってくれた。紐をされると、おはしょりをした上から「緋の一丈」を巻いて、袋帯で「柳」に締めてくれた。 白足袋を履いて、芸者の座敷姿が出来上がった。姿見に艶麗な女姿を写して、暫くは我ながらうっとりしていた。
 新しい部屋になった「会」の発展を願う集いは、会長を中心にしての宴だった。私が化粧に夢中になっている間、オードブルの買付や、盛付、配膳など、会員の中の二、三人が骨を折ってくれたらしい。何処にでも縁の下の働きをしてくれる人がいるもので、ちょっとばかり申し訳ないと心中思ったものだ。
 八疊の間だけでは、会員が座りきれず、リビングのテーブルの方も使っていたようだったが、私は奥の方に座ったまま動けなくなっていた。ビールの乾杯から始まった宴は、酒、もワインもあったように思うが、女装者の多くはアルコールに弱いようで酒量はあまり進まなかった。酒呑みの部類に入る者は女装などしないのかもしれない。それでも会長の懐古談や同好の士との遠慮の無いおしゃべりで、座は賑やかに盛り上がり、誰か隠し芸でもということになった。当時、新宿の飲み屋街に女装の店を開いた頃だったと憶うが、加茂梢さんが踊りを披露した。歌を唄った人もいた。アルコールの件もそうだが、歌の上手な人も少なく、二、三人が唄ったもののお義理の拍手だった。その内に席から消えてゆく者もあった。隣の部屋で楽しみ合っていたのかもしれない。
 誰と誰が参加していたかということになると、顔は覚えているが、名前になると、せいぜい10人くらいの人しか覚えていない。と云うよりも、初めから名乗り合ってもいないし、私の方も覚える気が余りなかったせいもある。

【25】 会の運営
 こうして、中野に移った新しい「部屋」の雰囲気は、今までから思うと明るくなった。特に若い学生などは、下宿へ帰って一人でいるよりも、ここへ寄っていった方が愉しいらしく、いつ行っても誰かしらが来ていた。また会員には、女装などしたこともない中年の紳士もいて、中には若い子のパトロンでもあったのか、特定の子を目的として来て、あまり濃い化粧をしなくてもいいナチュラルな感じの女姿になる若い子を、連れ出して行くところを見たこともあった。
 また、以前に女装をしたこともあったが、今は「オネエ」を抱く方になって、フェラチオをし合ってから、本番のアナルセックスをして帰る者や、地方の人で上京してきた時には「部屋」を宿にして、女装をして愉しむ人もいた。会員として登録されている者は、100人近くになっていたようだ。
 この部屋の家賃、水道光熱費、その他諸々の経費を負担するのに、会員は会費として毎月2000円を納めていたと憶う。会費は、その後、5000円にしたような気がする。それとは別に会の部屋に来た時には、風呂も使うし、その都度2000円を払った。押入れに預ける女装用品が多い者は、預け賃も払った。半年以上滞納した場合は、預かり品を処分することになっていたが、実際に行われていたかどうか、わからない。
 女装しない会員や若い学生たちの負担は、たぶん何分かの考慮がなされていたのであろうが、はっきり聞いたこともないのでわからない。
 ここへは会長もよく来ていた。私が行った日にはたいてい来ていて、和装にこしらえた私が会長に寄り添っている写真も残っている。しかし、一度なりとも遊んでもらったことはない。会長が特に可愛がっている若い学生がいたなんてことは、後になって知った。よく若い子を何人か前にして、「この字は何んて読むか」とか、今の学生たちが漢字に疎いことから、教育的な話をしていたのが印象に残っている。

【26】 8ミリムービーと写真撮影
 私は若い時からカメラを扱っていたし、8ミリムービーもモノクロのフィルムがWの時から使っていて、子供が生まれて幼い頃の記録も残してある。シングルエイトの16駒になってからは300とか400フィートの長尺物に編集してあった。
 私自身が出演している「遊び」のシーンを8ミリムービーで撮ったのが一本だけある。若い学生の子がカメラマンをしてくれたのだが、馴れないカメラを廻してもらわねばならず、カメラの位置やアングル、ショットを指示しながらのセックスでは、こちらが気が入らない。それなりに撮影してくれたのだが、一回限りで止めてしまった。
 その代わり、スチール写真なら一人でもセルフタイマーもあるし、女装してからの立姿や座り姿など、鏡に写してポーズをつけて撮ればいいので、誰かにシャッターを押してもらうこともできる。
 中野の「部屋」になってからは、会員の数も多くなったせいか、いつ行っても誰かしら来ているし、「遊び」になることも多くなった。艶麗な濃い化粧をした女姿が着崩れていく様とか、腿の奥まで塗り込めた白粉の肌も露わに淫らなセックスに歓喜する表情とか、洋装なら娼婦スタイルになってフェラチオをし合う様、屹立したものを咥えるルージュの唇、そしてインサートされている様子などをスチール写真に収めた。
 ずいぶん色々な会員と遊んだものだと思うが、顔は憶い出すものの名前の方は、何という人だったか、今でも知らない方が多い。
 カラーフィルムは、メーカーへ現像とプリントを頼まなければならなかったが、女装をしてのセックスシーンがあるので返すことはできないと云われたことがあった。プリント一枚だけで、他人に見せるものではなく、猥褻図画とするのは考え過ぎだろう。すぐに送り返すよう申し入れたところ、「今回に限り」と送ってよこした。やはりまずいと思い、以後はポラロイドカメラにして、随分色々なシーンを撮ったものだ。

【27】 ビデオ撮影
 その後、昭和50年代になってビデオカメラが普及しだし、最初はベータを買って、子供を中心にした家庭での日常的なことや地域の行事、旅行などを撮っていた。だが、それだけでなく、女装して化粧するところや「遊び」の様子を撮っては密かに編集していた。会員の部屋に誰かが持ち込んだビデオデッキはVHSだったので、女装してからビデオを楽しむにはベータのテープでは駄目で、VHSにダビングすると画質が落ちてしまうので、結局、カメラをVHSに買い替えた。
 その頃のビデオカメラは、カメラとテープをセットする器具が別になっていて、重量も相当なものがあった。戸外で風景や人々の動きを撮る時には、カメラを肩に乗せていた。会員の部屋での撮影は、いつも三脚に乗せていたので、その点は楽だったが、自分が被写体の場合は、誰かに操作してもらわなければならない。こうした場合には、オリエさんがよくやってくれた。どうせ編集するので、好きなように撮ってもらえばいいのだが、ロングからアップにしたり、けっこううまく撮ってくれた。
 オリエさんの手がない時は、回しっぱなしで撮った。まず、私が次第に燃え上がり、悶え、喘ぎ、よがり言を口走るまでを録音を入れてロングで撮る。そこで「遊び」を中断してカメラのショットを替え、「遊び」の始まりから昂まっていく表情のアップを撮る。このアップショットを編集の時にロングショットの間に組み込むのである。絶頂のシーンでは、アナルにインサートされてよがる私、私の屹立したものをしごきながら腰をつかう「お立ち」のロングショットの間に、「お立ち」の硬直したものがアナルを抜き差しする状況や、私が叫び声とともにザーメンを噴き上げるシーンのアップを入れるといった具合に、上手に編集すれば、結構、観られるものに仕上げることができた。
 ビデオ時代になって、スチール写真はほとんど撮らなくなり、会員の部屋に行くときは、必ずビデオ機材を持っていった。化粧ができあがったあたりから、鏡の中のカメラレンズを色っぽく見つめ、化粧直しをしたり、白塗りの場合は背まで抜いた襟化粧にうっとりする様子を撮影する。付け睫毛をした眼張りの瞳が、「お立ち」を誘う時の気持ちで流し目をする様などを鏡に写すナルシズムの愉しみもアップで撮っておいたりした。

【28】 「遊び」を撮る
 この会そのものが「女装の部屋」だけに、「遊び」をするとなると、多くが女装者同士の「レズ遊び」になってしまう。しかし、女装者を抱く心算だけで会員になる男もいて、ある時、オリエさんの取り持ちで、そうした男性会員に引き合わされ「遊び」をすることになった。白塗りの芸者姿をしていた私を見て、その人が「日本髪でない方がいい」と言うので、今更化粧直しもできず、着物を脱いで洋装にし、ロングのウィッグにした。この姿で化粧が白塗りというのはどうかと思ったが、相手はそれが気に入ったらしく「遊び」に入ることになった。
 オリエさんがビデオを撮ってくれることになり、抱かれて感じて来たところから始めて、私がフェラチオをしてやるシーン、そしてアナルへのインサートシーンを延々と撮られた。女の表情を浮かべて悶える顔のアップもうまく撮ってもらった。その人とは、その後、何回か「遊び」をするようになった。
 また、久しぶりに一緒になった女装会員の人が、白塗りをしたいと言うので、私の「地がつら」を貸してやり、二人で日本髪の女姿で「遊び」をした。交互に相手のものを咥えこんで、黒髪を揺する様や、口淫される快感にのけぞる表情などをオリエさんにアップで撮影してもらう。オリエさんのカメラマンぶりも慣れてきて、二人が更なる悦楽を求めて、帯を解き、着物を脱いで、緋の長襦袢だけになり、私が女の役をする「遊び」の様子をじっくり撮ってくれる。
 肩からずり落ちそうな襟から、一際濃く塗り込めた襟白粉の雪の肌も露にして抱かれる年増女が、裾前から白粉を塗った膝をこぼす。相方に探られるままに、緋の色を捲られた内腿の白粉の奥で疼きの昂まるものをつかませ、妖艶な流し目を送る。トランスベスティシズムとナルシシズムの快感が更なる硬直を呼ぶ。まさに病い膏肓であった。
 暑くなると、白塗りでは汗だくになるので、それを避けるために洋装になったが、本来は白塗りがなにより好きで、「遊び」は二の次であったろう。
 ビデオ撮影は白塗りの時だけではない。ロングヘアーに濃いアイシャドー、長い付け睫毛、妖艶な女眉、唇も大きめにルージュで描き、ある時は黒、ある時は赤のランジェリー、同色のブラジャー、ガーターベルト、パンティに、ストッキング、ハイヒールという娼婦スタイルの私がオネエ役を演じる様も撮影した。フェラチオする横顔、アナルへのインサート、屹立する私のものをしごく「お立ち」の指の動き、次第に昂まっていく快感に喘ぐ声、よがりだす表情のアップが続き、やがて尿道を駆け抜けてゆく灼けるような快感のほと走りが噴き上がり、乳白色のザーメンが撒き散らされるところまで、幾つかのビデオテープに今でも残っている。
 ロングのウィッグでの娼婦スタイルは、身軽なだけに絡み合う時に、髪の乱れを気にすることなく、その時に応じて好みのラーゲ(体位)を取れる利点があった。娼婦に成り切って、ハイヒールを履いたままフェラチオし合い、アナルへインサートされる猥らなセックスシーンを撮影し、編集してダビングテープにおとしておく。後で再生して、悦楽の表情のアップなどを観察し、次に顔を拵える時の参考にしたものだ。
 妙なもので、女性のメンスと同じように、最低月1回は女装をして「遊び」をしないと落ち着かなくなってしまった私は、出来る限り月2回は「会員の部屋」へ通うようになっていた。初めの頃は、マンションの脇へ駐車しておけたのだが、次第にそうもならないようになって、中野のサンプラザの駐車場を利用するようになった。駐車場が満車で入るまで待たされる時はいらいらしたものである。「部屋」へはタクシーを拾って行くので、けっこう重いビデオ機材も別に苦にならなかった。

【29】 鬘の手入れ
 「遊び」をする時も鬘をつけたままなので、鬢のほつれや、髱の崩れが早かった。他にも日本髪の結い直しをしたい人がいて、オリエさんの知り合いの髪結いさんを呼んでくれることになった。下谷の方で美容院をやっている母と子が来て結い直しをしてくれた。それからは、その店まで何度か結い直しを頼みに行った。また、ビデオ撮影で好色な年増の猥らさを演出するために、それまでの「芸者島田」ではなく「つぶし島田」に結ってもらうようになった。

【30】 『風俗奇譚』の撮影
 こうしたビデオを撮るようになる前だったと思うが、私が「部屋」に行った日に、初めての人が来ていて、会長と歓談していた。初老という感じの人で、新しい会員かとも思っていた。化粧を済ませてリビングへ出てゆくと、会話の内容から『風俗奇譚』の社主であるらしいとわかった。他にも何人か会員がやって来て、それぞれ化粧を済ませた頃、その社主が連れて来たというカメラマンに写真を撮ってもらうことになった。
 ちょうど、私は芸者島田に裾引き姿であったので、ポーズをつけさせられて、何枚か撮られた覚えがある。しかし、当時はもう『風俗奇譚』は買っていなかったので、雑誌に載ったかどうかも知らない。会長としたら今までよりゆったりとした部屋になり、会員も多くなったことを見せたかったのだと思う。

【31】 関西からの客
 関西の女装者が好きな男性から、会長に「一度訪問したい」と連絡があったらしく、「できるだけ集まるように」と日取りが発表された。私も出掛けて行ったら、ちょっとした宴席が設定されていた。会長の懇意な人が来るらしいので、その日もこってりとした化粧をした芸者姿でいた。お客さんというのは、年配の小柄な方で愛想もよく、「近ごろは糖尿で役立たずになってしまったが、女装者の写真を撮るのを愉しみにしている」という方だった。私の芸者姿を気に入ったらしく、並んでいるところを撮らしたりした。後日、その時の写真を送ってくれたが、たいへん良く撮れていた。
 会長の顔の広さはたいしたもので、流石に長年女装者の面倒を見たり、そのための会を作ったりしているだけのことはあった。地方から出て来る会員もいるし、こうして新しい「会員の部屋」を見に来る人もいた。

【32】 一泊温泉旅行
 会員同士で一泊旅行をしようかという話もあった。私が参加したのは1回だけだったが、9人か10人で長野県の上山田温泉に行ったことがある。
 私ともう一人が車を出して、それぞれ分乗して2台での旅になった。運転する私としては、女装するのもどうかと思い、普段の服装で、宿に着いてから化粧をした。他の者は初めから女装してくる者が多く、賑やかなではあったが、トイレには困ったようだった。
 この時は、芸者も呼んだので、私は白塗りにはせず、洋装にして宴席に列なっていたが、会員それぞれが得意の女姿での宴で、お酌の芸者も大喜びだった。だが、私としては、「遊び」をすることもなく、心中甚だ心残りの夜になってしまった。
 帰りも何人かは女装姿で、「会員の部屋」まで戻って来たが、私は男のままだった。他の会員を送り届けるドライバーの役割であったが、過ぎてみれば愉しい憶い出になっている。

【33】 名古屋の男性専用ホテル
 会員の中で、仕事で関西へよく行くらしい人から、「大阪のミナミの方にある『唄子』という店がおもしろいけど行ってみないか」と誘われた。私の車で行くことになり、途中、名古屋の納屋橋側の「名宝会館」の裏に当たるビルが、女性お断りの男だけが集まるところで、そこに寄って一泊するという話になった。車のトランクに日本髪と洋髪の鬘、女装に必要な衣装、化粧道具を積み込んで、「会員の部屋」で落ち合って出掛けた。
 名古屋のビルの前が駐車場ビルであったので、そこへ車を置いて女装用品を入れたトランクを持ち、フロントで一泊するからと部屋を取った。宿帳を書かされたので、会員として使っている女装名の終わりの「子」を書かなければ男名前としても訝しくないので、そう記入した。先方は確かめもせずキーを渡してくれた。
 大勢で入る風呂もあった様だが、ルーム付きのバスで髭を剃れば、化粧をするのに困らない。いつもの様に入念なメイクをしてロングのウィッグ、娼婦スタイルの下着の上にドレス、ハイヒールを履いて部屋の外に出てみた。
 廊下を行くと、ソファーの置いてあるホールのような所があり、何人かの男たちが腰掛けたり、佇んでいた。女装している者は一人も居ず、私の方を見て興味を示す者も居ない。しばらくそこに居たものの、「ホモ」の集まりのようで居心地が悪い。少しばかり歩き回ってみたが、私を誘った連れは、女装して部屋を出て行ったはずなのにどこに居るのか判らず、仕方なく部屋に戻ってベッドの上で座っていた。
 さて、どうしようかと思っていたら、ノックもせずにドアを細めに開けて覗きこみ、私の方を見つめる者がいた。私が拒否していないと思ったのか、その中年の男はニヤニヤしながら入って来て、何かと話しかけてきた。私の好みのタイプではなかったので、適当に相槌をうつ程度にしていたら、30分程して出て行ってくれた。

【34】 大阪「唄子」で遊ぶ
 そんなことで、名古屋の夜は何事もなく、翌日、大阪の「唄子」という店に着いた。確か3階建てのビルの一部だったと憶うが、1階が店になっていて、カウンターとボックス席が2つか3つあった気がする。2階は楽屋兼女装用品の預かり場所で、バスも付いていた。夕方近くになると、店の方に二人、楽屋に一人がいた。
 女装者だけの店でもなく、普通の同伴客が話の種にと女連れで来てたりもしていた。女装をして店へ出てゲイボーイになった気で、そうした客と同席もできるようだった。カウンターでカラオケを唄う者もいる。女装者が女性のホステスとチークダンスもできる。女性が股を割りこませて来たり、腰を押し付けられたりもした。彼女たちを目当てに来る客は、地下の部屋でSM的な遊びをするのだとも聞いた。
 この「唄子」に2晩泊まったのだが、住み込みのチーフの部屋が3階にあって、2部屋ある一方で休んでいた。一晩は「遊び」の相手として、そのチーフを買ったのだが、満足する程でもなかったし、写真もモノクロで撮ったものの、うまく撮れていなかった。
 最初の晩、白塗りの日本髪にして、外出という程ではないが、店の近所へ連れ出された。通っている人たちの誰もが、特に珍しそうに見て行くでもない。東京でこの格好をしていたら、それこそジロジロ見られて、「オカマ」なんて言われたろうにと思ったりしたことを憶い出す。
次の晩は、洋装にして、店へ来た男女二人連れの客のボックスへ同席させられ、話し相手をしたりした。ちょっとばかりゲイボーイまがいの役をしてきたことなど、過ぎた日の憶い出の一つだ。

【35】 会長の逝去と会の解散
 あれは何年頃のことであったか、会長の「喜の字の祝」やると言うので出掛けた。「会員の部屋」では、いつもの様に誰かが宴席を支度してくれているようなので、私は白塗りの芸者姿で列席した。会長の懐古談などを聞いて、会の成り立ちやその他のことも新たに知った。
 この時の「会」の後は、会長に会うことも少なくなった。会の「部屋」へ来るのも減って来ていたのではないだろうかと思う。それからどのくらいの時が経ってだろう、会長が亡くなったと聞いたのは。
 会長が亡くなって、会の運営はオリエさん独りになってしまった。会員が増えることは望めず、若かった学生などの会員は、社会へ出てゆくと同時に足が遠のいてしまう。「エリザベス」なんていう女装の部屋ができると、「遊び」をしない者などは「富貴」なんてものを知る機会もないだろう。古い会員もそれぞれ年を重ねてくるし、次第にマンネリ化して来る。オリエさんにしても老齢期に入ってきて、会の維持に疲れもしてきたのであろう。会の解散と言うことを言い出した。
 オリエさんは、戦時中、満州に居たとか聞いていたが、その当時は、軍の将校相手の女装稼ぎで、若い時からこの世界で暮らし、妻も子もなかったが、昔からの仲間と余生を気楽に過ごしてゆこうと言うのであれば、会の解散もやむを得ないことであった。
 借りていたマンションの部屋を明け渡したのが平成2年(1990)8月だった。中野大久保通りへ通ったのは、20年になると思うと、感無量のものがあった。

【36】 アパートを借りる
 会が解散になって、さて、どうしたらいいのか。会員の相当数の者は、女装用品もけっこうあるし、各自でその処分を考えなければならない。だからと言って、女装そのものを辞めてしまうと言ってる者はあまりいなかったようだ。気の合った者同士で他に部屋を借りるとか、そんな動きになった。私にも誘いがかかり、3人ほどで今の部屋へ移ることができた。相変わらずの厚化粧の娼婦を演じることができれば、それで十分である。
 もし、誰も誘ってくれなかったら、女装用品だけでも段ボールの箱に幾つもあったし、家へ持ち帰るわけにもゆかず、私一人で、どこか小さな部屋を持つようになっただろう。
 今の部屋は、住み込みの者がいないので、行った時に誰かがいるというわけにはゆかず、帰るまで一人の時もある。少しばかり淋しいのだが、ビデオも一体型になり、録画もロングからアップのショットをリモコンで操作できる上に、カメラを上下左右に振り回す補助装置もあるので、一人でも撮影はできる。
 煌々と輝くライトを受けて、ソファーベッドの上で様々な姿態をする「もう一人の私」の悦楽状況をモニターテレビの中に見ることができる。「遊び」の相手がいる時も、一人の時も、それなりに化粧の仕上がり具合や、新しい衣裳の見栄えを確かめたりして愉しんでいる。 

【37】 「もう一人の私」になること
今にして思うと、女装に取り憑かれてからは、女房の他には女を買うこともしなくなり、「富貴」の会員としての秘め事を長年にわたって続けることで、折に触れて享楽の時を持てたことは、下戸の男の唯一の愉楽であった。本質的には「女姿」になった「もう一人の私」へのナルシシズムが、私を駆り立てていたのだと思う。
 大勢いた会員の誰よりも、化粧の濃いのが私だった。白塗りの時などは、脛毛と膝の生毛を剃った肌に足の裏まで白粉を塗り込める。全身雪の肌になることで「女」の意識に変わる。「もう一人の私」は、洋装をする時も顔だけでなく、首筋から胸へ、肩から指先まで、ファンデーションを塗る。上半身素肌でいたことはない。
 私が厚化粧の男好きの「女」に変わるのは、そうした寝化粧の女と閨を共にしたいという願望の裏返しなのだと思う。その願望が「もう一人の私」を濃艶な女に仕立て、猥らな娼婦のように男たちに抱かれる「遊び」に耽させているのだろう。それが私の理想の女なのだ。
 燃えるような緋色の長襦袢の乱れに、白粉の雪の肌を露にして、ほつれていく鬢の黒髪を揺すり、男の猛りを口に咥えてフェラチオを楽しみ、ワギナの代わりのアナルに男の硬直したものをインサートされる。沸き上がる女の気持ちに、腰を使い合い、女であればクリトリスに当たるはずだが、それにしては巨大に屹立しているものを指に掴まれて愛撫され、悶え、喘ぎ、取り乱してゆく濃艶な女の表情を鏡に写して見つめる。ビデオモニターの画面には、長い睫毛の瞳を投げて猥らな言葉を口走り快感にふるえる「女」が映っている。やがて、よがり声は泣きよがりになり絶頂へと昇りつめてゆく。「もう一人の私」の「女」が叫ぶ瞬間、私の尿道を灼けるばかりのものが噴き上がりほとばしり、暫し我を忘れる程の悦楽にひたる。
 女姿の「もう一人の私」になることは、まだまだ続けてゆきたいと思っている。

【38】 これから
 65歳を過ぎると、税法上の老人扱いとなるが、最近では百歳以上の方も多くなり、なお矍鑠たる翁の姿をテレビで見たりする。それに比べれば、当方はまだまだの青二才もいいところで、「老後」なんて言葉には縁のない生き方をしてゆきたいと思っている。
 定年制のある普通の勤め先ではなかったが、自分なりの仕事をするべく辞めての現役でもあるから、まだ若い心算でいなくてはと、月に一度くらいは「女姿」の若作りをしに東京へ行くようにしている。相変わらずの濃い化粧の女に化ける「女装」という秘め事を続けることは、他人には言えないが、私の人生にとって、結構、若さを保つためになっているのかも知れない。

【39】 あとがき
「女装の部屋」としての「富貴クラブ」が解散した当時、私が入会させてもらった成子坂下時代の会員はほとんど居なくなっていた。それ以前のことなど、何かで小耳に挟んだことはあったが、詳しくは聞く気もなかったので、この会が何時頃から何処で始まったのかは知らない。
 月に一度か二度くらいの割合で、会の「部屋」へ行く私は、「もう一人の私」に化けること、素顔からは想像できない女に変わってしまうことに専念していた。濃艶な厚化粧が「お立ち」との寝化粧になり疑似異性愛の女役としての「遊び」の悦楽に没頭していただけであったから、会の歴史などを語る資格はない。
 憶えば、人生の半分を女装に取り憑かれて来たようなものだから、私自身を語ることで「富貴」と言う女装クラブがどんな会であったかを察してもらえればとペンをとった。時を追って憶い出すままに書いたものを読み返してみると、悪文の未熟さと、「もう一人の私」になっての露出症的な恥さらしには、面映ゆいばかりである。私と同じような秘め事を持つ同好の士の目に留まることであるならば、その当たりは理解してもらえると思う。
 「富貴」の会員たちは、そうした淫らな快楽に耽る人ばかりではなく、女装をするだけで満足していた人も多かった。「女装の部屋」では会員たちの間に争い事はなかったし、どの人にしても、善良で小心な紳士たちだった。
 こうした別世界での顔であった会長と、大勢の会員の面倒を見てくれたオリエさんのお二人の存在が、この会の一時の隆盛と長い存続を保てた根本だったと思う。
 今はただ懐かしいだけである。


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