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2010年08月04日 『朝日新聞』夕刊「ニッポン人・脈・記」の撮影 [朝日新聞「男と女の間には」]

2010年08月04日 『朝日新聞』夕刊「ニッポン人・脈・記」の撮影

8月4日(水) 曇りのち晴れ  東京 33.8度 湿度 58%(15時)

7時半、起床。

シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

朝食は、アップルパイとコーヒー。

化粧と身支度。
赤と白の大市松に黒の鋸歯文を乗せた銘仙写しの綿紅梅(メテュンデ)。
横縞の博多帯の黄色を上に出し、その上に赤黒の半幅帯を巻いて、順子オリジナルの二階文庫に結ぶ。
黄色の吸い上げ暈しの半襟(ゑり正)を付けた半襦袢。
帯締は草色の吸い上げ暈し(ゑり正)。
赤地に手毬柄の手提げ袋。
赤色の麻の葉模様の鼻緒をつけた白木の下駄。
左前髪に、赤珊瑚の飾り櫛。

9時50分、家を出る。午前中、自由ガ丘で「『続日本紀』と古代史」の講義。

カルチャーセンターのスタッフさん、受講生の皆さんに驚かれる。
「今日はこの後、撮影なので・・・」と言い訳。

(この間、着物姿で古代史の講義)
12時、終了。

昼食は、例によって「平禄寿司」へ(4皿)。
顔見知りの女性スタッフに驚かれる。

学芸大学駅に戻り、東口商店街の「ドトール」でコーヒー・ブレイク。

13時半、「仕事部屋」に戻る。

眠いので、横になりたいのだが、この格好では帯が邪魔で、うつ伏せ寝以外は無理。
でもうつ伏せで眠ると、顔がむくむから駄目。

椅子に座ったまま居眠りして、転げ落ちそうになる。

15時、早めに行きつけの美容院「ヘアー アン ローズ」(目黒区鷹番)へ。
女将さんに、髪を「夜会巻き」(の変形)にセットしてもらう。

お会計をした後、涼しい所で、撮影モードに化粧を直す。
アイシャドーとチークを濃くして、アイラインもほぼ全周に引く。
でも、この暑さだと、撮影までに流れちゃうだろうなぁ。

再び「ドトール」で時間調整。

17時20分、電車で新宿に移動。

18時、新宿駅東口「みずほ銀行」前で、朝日新聞社のW記者とカメラマンのKさんと待ち合わせ。

今夜は、『朝日新聞』夕刊の連載企画「ニッポン人・脈・記」の撮影。

当初、6月18日に予定されていたものが雨で流れてしまい、その後は、参議院選挙の取材でW記者が多忙で、今日まで延びてしまった。
掲載が8月下旬の予定なので、もう待ったなし。

まず「カフェラミル」に入って、クールダウンしながら補充インタビュー。

19時過ぎ、ほぼ完全に暗くなった頃を見計らって、歌舞伎町へ。

旧「ジュネ」(区役所通り)、「風林会館」前、「コマ劇」前の三カ所で撮影。

プロのカメラマンにちゃんと撮ってもらうのは、13年ぶり?

13年前は、まだ40歳代の初めで、それなりに容姿に自信はあったが、今はもう容姿がどうこう言える年齢じゃない。

できあがりが楽しみであると同時に、13年間の劣化が怖い。

それにしても、今まで4回あったこの手の撮影、なぜかその内の3回が夏。
汗かきの私には、条件が悪い季節。

今夜も、暑さと風で条件的には良くなかったが、なんとか撮り終える。
100804-1.jpg
20時過ぎ、撮影終了。

W記者と東口「高野」裏手のパブ・レストラン「KEN’S DINING」へ。
飲み食いしながら、2時間半ほど、おしゃべり。

W記者、しきりに「楽しい取材だったなぁ」と言う。
楽しく仕事ができたのなら、何より。
きっと、良い連載記事になるだろう。

新聞掲載は8月下旬。
13回シリーズで、W記者のつもりでは(デスクの意向によって変更されるかも)、私は最終回(トリ)に登場の予定とか。

22時半、辞去。

記念にツーショット撮影して、握手して別れる。
100804-2.jpg
↑ 記者の左手に注目。肩を抱く勇気(根性)はないらしい(笑)

23時半過ぎ、帰宅。

もったいないけど髪を崩して、お風呂に入って、髪を洗う。

この暑さの中、朝から夜までずっと着物を着ていたので、疲労困憊。

就寝、3時。


2010年04月07日 担当記者に会う [朝日新聞「男と女の間には」]

2010年04月07日  記者に会う
(前略)

昼食は、いつものように「平禄寿司」(6皿)。
春休みが終わったようで、今日は空いていた。

学芸大学駅に移動して、東口商店街の「ドトール」でコーヒー・ブレイク。
上京中の妹に電話したら、姪っ子と渋谷にいることが判明。
急遽、会いに行くことにする。

13時、「仕事部屋」に戻る。
30分だけベッドで横になり休憩。
化粧を直して再外出。

14時20分、渋谷の東急本店通りで、妹と姪(妹の長女で大学生)と合流。
日暮里の飛不動に付き合って(2009年7月4日)以来だから9ヵ月振り。

西武デパートの喫茶室でお茶。
1時間ほどの短い時間だったが、会えて良かった。

15時20分、妹たちと別れて、山手線で高田馬場駅へ。
16時、早稲田大学の大隈重信像前で、朝日新聞のW記者と待ち合わせる。

なんでここで?と思ったら、単にW記者が早稲田大出身だったかららしい。

「リーガロイヤルホテル東京」のカフェで、2時間弱、お話する。

W記者は、30歳代の男性で名古屋支局の所属。
『朝日新聞』夕刊の連載記事「ニッポン 人・脈・記」の社内企画コンペに通り、4月から半年間、その取材に専念することになったらしい。

3月の末に、電話で下取材(というか相談)を依頼された。

W記者、体格から元体育会系っぽいが、考え方はまともというか、しっかりしている。
信頼できそうな方なので、具体的にどんなお手伝いをすることになるかわからないが、できるだけの協力はするつもり。

18時、辞去。

『朝日新聞』夕刊連載「ニッポン 人脈記 男と女の間には」(全13回)索引 [朝日新聞「男と女の間には」]

2010年10月01日

『朝日新聞』夕刊連載
ニッポン 人脈記 男と女の間には」(全13回) 索引

朝日新聞夕刊連載「ニッポン人脈記:男と女の間には」のインデックスを作りました。
URLで掘り起こしていただくと、紙面の画像と記事(文字入力)が読めますので、ご利用ください。

なお、『朝日新聞』のサイトで読めるのは、第1回だけです。

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(第1回)9月6日(月)「見えない壁 突き破った」 上川あやさん・野宮亜紀さん
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-14-2

(第2回)9月7日(火)「女ごころ 裕次郎が抱いた」 カルーセル麻紀さん・圭子さん
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-14-3

(第3回)9月8日(水)「本当のしあわせって?」 原科孝雄さん・なだいなださん・塚田攻さん
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-14-4

(第4回)9月9日(木)「急げ 法の後ろだて」 大島俊之さん・南野知恵子さん
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-14-5

(第5回)9月13日(月)「パパもおっぱいあげたい」 森村さやかさん・水野淳子さん
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-15

(第6回)9月15日(水)「『性てんかん』黒板に書いた」 虎井まさ衛さん・小山内美江子さん
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-15-1

(第7回)9月16日(木)「ニューハーフ 薩摩に帰る」 ベティ春山さん
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-15-2

(第8回)9月21日(火)「厳しくても心のままに」 瞳条美帆さん・椿姫彩菜さんhttp://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-15-3

(第9回)9月22日(水)「至って普通の結婚です」 若松慎・麗奈ご夫妻
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-16

(第10回)9月27日(月)「ゆらり揺られて 私は私」 石島浩太さん
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-16-1

(第11回)9月28日(火)「人生 面白がらなきゃ」 能町みね子さん
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-16-2

(第12回)9月29日(水)「もっと大切なものがある」 中村中さん・戸田恵子さん
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-16-3

(第13回)9月30日(木)「違いがあっていいんだよ」 三橋順子・藤原和博さん
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-16-4

「ニッポン人脈記:男と女のあいだには」(13・最終) [朝日新聞「男と女の間には」]

朝日新聞夕刊連載「ニッポン人脈記:男と女のあいだには」(13・最終)

2010年9月30日(木)

大地震が来ることもなく、火山が噴火することもなく、お陰さまで、朝日新聞(夕刊)「ニッポン人脈記:男と女のあいだには」「第13回(最終)違いがあっていいんだよ」が無事に紙面に載りました。

前・杉並区立和田中学校校長の藤原和博さんと私のコラボです。

写真は、新宿歌舞伎町旧コマ劇前での撮影。
蒸し暑いうえに風が強く、屋外撮影には最悪の条件でしたが、「髪を押さえるしぐさが色っぽいので」(渡辺記者)ということで、この写真になったようです。

同時に、この「男と女のあいだには」シリーズも完結となりました。

お世話になった皆様に、心から感謝いたします。

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ニッポン 人脈記 男と女の間には(13)
13回.jpg

違いがあって いいんだよ
きりりとした着物姿とは裏腹に、三橋順子(55)は不安でいっぱいだった。いざ、教室の扉を前にすると、ためらわずにはいられない。

「子どもって容赦ないからな。『おかま』って指をさされて笑われたらどうしよう」

2001年9月、三橋は東京都足立区立第十一中学校に講師として招かれていた。誘ったのはリクルート社員だった藤原和博(54)である。後に都内の公立中学校では初の民間人校長になる藤原は、この第十一中学校で、教師らと協力して「よのなか科」という授業を始めていた。

恐る恐る教室の扉を開けた三橋を、3年の生徒たちは割れんばかりの拍手で迎えてくれた。三橋を講師に「差異と差別」を考える授業は、男子生徒のこんな質問で始まった。

「女として生きたいって目覚めたのは、いつごろですか」

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子どもの頃から女性的なところはあったが、三橋がはっきり自覚したのは22歳の時だった。渋谷駅で茶色のブーツをはいた美女を見かけ、「自分もああなりたい」と切に願った。

結婚直前の29歳で女装を始める。これから夫になるのだからと「最初で最後」のつもりだった。通販で仕入れたカツラ、洋服を身につけ、鏡の前に立つ。女の自分は思っていた以上にきれいで、やめられなくなった。

自分は夫であり、勤務先の大学では男性研究員だ。なのに女でいたい。罪悪感がぬぐえず、これが最後だと女装しては道具一式を捨てる繰り返しだった。35歳で秋葉原の女装クラブに通い始め、40歳のときに歌舞伎町でホステスになった。

「女の自分」が大きくなり、大学を辞めた。論文は書き続けたが、研究対象は日本古代史から、女装の文化史など「多様な性」に移る。そんな頃に知り合い、渋谷の居酒屋で語り合ったのが藤原だった。

藤原が開いていた「よのなか科」は、社会のあり方を実践的に学ぼうとする授業だった。ハンバーガー店の店長の立場から「輸入と輸出」を考えたり、理想の住まいを白紙に描いたうえで建築家に技術や予算について学んだりしていた。

三橋を招いたのは、人と違うことと、それを攻撃し排除しようとすることの二つをみんなで考えるためだった。男にして女、大学教員にしてホステスという三橋の経験談は、生徒の思考能力を鍛えるに違いないという思いもあった。

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授業では、藤原による「男女度チェック」もあった。「かよわい」「さっぱりしている」など10項目について、自分の性格に当てはまる度合いを5段階で選び、総合して判例する。

男子なのに「女」と出た生徒が続出した。逆もしかり、参観に来た5人の母親は全員「男」と出て、どっと笑いが起きる。藤原は「誰にでも自分の性とは違う傾向が自分の中にある」とみんなに言った。

自分が少数派になった経験はありませんか、とも藤原は尋ねた。生徒が口々に語る。
「天然パーマとからかわれた」「無視されている子と仲良くしたらアザだらけになるまで殴られた」。三橋が言った。「自分は多数派だと思っていても、いつ突然、少数派になるか分からない。それを覚えておいて」

三橋を招いての授業は、藤原が杉並区立和田中学校の校長になってからも、退任する08年まで毎年開かれた。2人が授業で伝え続けたことがある。

違いをあげつらい、少数派を生むことで多数派がまとまり、差別が始まる。最初はささいなことかもしれないが、その積み重ねを放っておけば、やがてナチスドイツによるユダヤ人虐殺「ホロコースト」のような悲劇につながっていく―。

三橋は今、多摩大学の講師として教壇に立っている。人は誰でも少しずつ違う。違いはあっても、ともに社会を形作る仲間だと考える。そういう教え子が一人でも増えて、そこから共感が広がっていけばいい。「種まき、ですよね」と三橋は言う。

少数派を囲む見えない壁は、なお高く、厚いかもしれない。変幻自在でしぶとくもある。
それでも、人は種をまく。

(このシリーズは文を渡辺周、写真は近藤悦朗が担当しました。本文敬称略)

「ニッポン人脈記」男と女の間には(12) [朝日新聞「男と女の間には」]

朝日新聞夕刊連載「ニッポン人脈記」男と女の間には(12)

2010年09月29日 (水)

第12回は、シンガーソングライターの中村中さんと女優の戸田恵子さんの登場。

夕刊早刷り(遠隔地配布)は、いつものように1面掲載。
そこに、北朝鮮のキムジョンウン軍事副委員長就任のニュースが飛び込み、止む無く、遅刷り(首都圏配布)は、2面掲載になりました。
その分、スペースが大きくなり、字詰めがゆったりし、写真も大きいです。

記事の末尾の中村さんの思いに感動。
「性別がかたどる自分はせいぜい半分かな。私には歌がある。みんな何かを背負いながら、でももっと大切なものを持っている。いつか見つけられる」

ほんとうに、その通りだと思います。

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ニッポン 人脈記 男と女の間には(12)
12回.jpg

もっと大切なものがある
2007年の大みそか、歌手の中村中(あたる 25)は紅白歌合戦に紅組から出場した。

歌に入る前、中村の過去の写真が映し出され、ナレーションがかぶさった。

「中さんは男性として生まれ、性同一性障害でずっと悩んできました」

笑福亭鶴瓶(58)が母親からの手紙を読んだ。「重い荷物を背負わせてしまいました」。ここで中村は涙ぐむことを期待されていたのかもしれない。しかし、笑顔で受け答えを済ませると「友達の詩」を静かに歌い始める。

?手を繋ぐくらいでいい 並んで歩くくらいでいい それすら危ういから 大切な人は友達くらいでいい

番組の演出に、中村は心中思っていたのだ。お涙ちょうだいはごめんだよ――。

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中学に上がる頃、中村はテレビで研なおこ(57)の「泣かせて」を聴いた。歌にひかれるようになったのはその時からだ。

?泣かせて なかせて 自分が悔しいだけよ。

思うように人と話ができず、ふさぎ込むことの多い子どもだった。「怒り、悲しみ、みんな歌で表現すればいいんだ」。15歳で初めて作った曲が「友達の詩」だった。

20歳を過ぎてデビューが決まる。レコード会社は、性同一性障害のことを公表して注目を集めようとした。中村は悩んだ末、言わないのもウソをついているようだからと同意した。

果たして中村の歌は性同一性障害と結びつけられて語られることになる。「友達の詩」を聴いた人の多くは、だから好きな人に相手にされず、悲しい恋をしたのだと受け取った。

そうではないと中村は言う。好きという気持ちは本当にピュアでなければいけないのに、私はそこまでピュアだろうか。相手がどう思うかではない、と。

小学生の時は男子だけがする組体操が嫌でサボったことがあったし、中学で変声期に入ると自分の声に我慢できず楽器に走った。心と体が違う。自分は何者か、人一倍突き詰めて考える日々だった。

それが歌に影響しないはずはないし、「そういう人が歌っているにおいがする」のは自分でもわかる。でも性同一性障害を表現したわけではない。若い頃に誰しも抱える、もろく切ない感情を、歌に注ぎ込んだ。

紅白に出た年の夏、中村は女優の戸田恵子(53)と出会う。

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声優でもある戸田は1974年、あゆ朱美の名で歌手デビューした。歌手では売れなかったが、50歳を機に新曲を出すことになる。「等身大の自分を若く才能のある人に書いてもらいたい」。中村に白羽の矢が立った。

東京・六本木の料理店で2人きりで会った。きりたんぽをさかなに、夜9時ごろから飲み始める。戸田が自分の50年を語り、中村は「ピンと来るフレーズ」があるとメモを取った。気づけば午前3時を回っている。

会う前、戸田は中村の歌を聴いて「踏み込んではいけない、ガラス細工のような心を持った人」だと思っていた。会ってみると、屈託のない明るさと、音楽の世界で頭角を現すだけの芯の強さを持っていた。

後日、中村がピアノの弾き語りで歌った曲が、ノートに手書きの詩とともに送られてきた。タイトルは「強がり」とある。

?あたしにだって 泣いている夜くらいあるわって そんな風に言ったら、今度はみんなわらうのかしら

戸田は泣いた。泣く暇なんてない芸能界で33年走ってきた自分の気持ちそのものだった。

みんなそうでしょ 強がり――歌はそう終わる。私だけじゃない。誰だって自分の人生をそうやって生きている。戸田はライブで、この最後のくだりはとりわけ心を込めて歌う。

最近、中村は子どもの頃に初恋をした男性に再会した。当時いじわるをした男性は言った。「それしかやってないっていうほど音楽に打ち込んでて、うらやましかったんだ」

女の子みたいだからいじわるしたんじゃないんだ、中村はそれを知ってうれしかった。

性別がかたどる自分はせいぜい半分かな。私には歌がある。みんな何かを背負いながら、でももっと大切なものを持っている。いつか見つけられる。

中村は、そう思っている。
    (渡辺周)


「ニッポン人脈記」男と女の間には(11) [朝日新聞「男と女の間には」]

朝日新聞夕刊連載「ニッポン人脈記」男と女の間には(11)

2010年9月28日(火)

第11回は、「オカマだけどOLやってます。」で有名なエッセイスト&イラストレーターの能町みね子さん。

正直言うと、今まで能町さんの作品については「オカマ」という言葉を標題にしていることに、かなり抵抗感があった。

でも、今回の記事で、
「オカマという言葉がいいとは思わないが、『性同一性障害』は使いたくなかった。『障害を乗り越えて』と励まされるのは性に合わないし、病名で自分を語りたくない。『だって、「こんにちは。私、肺がんです」って変でしょ』」
と述べられています。

病名をアイデンティティにするのは、どう考えてもおかしい、
「障害」「病気」で他人の同情は買いたくない、
というのは、私の長年の主張。

その点、同じ感覚ということがわかって、うれしいかったです。

さて、このシリーズもいよいよ残すところあと2回。

実は、歌手の中村中さんが、美しいステージ写真入りで登場することは、すでに「新sあらたにす」で予告されています。
http://allatanys.jp/D004/index.html
たぶん、第12回が中村中さん+戸田恵子さん(女優)でしょう。

となると、タレントのはるな愛さんが登場するのか、微妙になってきます。
愛ちゃん、このシリーズの取材時期が「24時間テレビ」(NTV)の24時間マラソンの準備で忙しい時期だったので、取材を受けられなかったのかもしれません。

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ニッポン 人脈記 男と女の間には(11)
11回.JPG

人生 面白がらなきゃ
くしゃみは怖い。低い地声が出て、一発で男だと感付かれてしまう。

能町みね子(31)は、鼻がむずむずするたびに懸命に抑え込んだ。半年の特訓で女性らしい声が出せるようになったのに、くしゃみごときで無にしてなるか。

ようやく手にした華のOL生活なのだ。

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能町は、小さな頃から自分が男であることに違和感があった。大学を出て東京で就職、ネクタイを締めるようになると、もう耐えられない。1年たたずに退社した。精神科で診てもらったら「性同一性障害ですね」。

親に打ち明けたのは、実家で一緒に韓国ドラマを見ている時だった。ペ・ヨンジュンがプロポーズする場面で、その勢いを借りて切り出した。母親は泣きながらも「幸せになってくれるのが一番」と言ってくれた。

まずは職探し、これからは女として働くのだ。正社員だと戸籍上の性別がわかってしまう。非正規雇用の事務職を探した。履歴書にある性別欄はドキドキしながら「女」に丸をつける。数社で面接を受け、不動産会社で働くことになった。

OLになってみると、働く女の世界は新鮮だった。偏見と思い込みが次々に崩れていく。

いつも群れているのかと思ったら、昼休みは各自ばらばらに食べに出て行く。トイレットペーパーを使う時はガラガラと豪快で、「髪がまとまらなくて」とぼやけば「そんなことないよお」と言ってくれる。重い荷物を運ぼうとしたら、男の社員が持ってくれた。女子万歳――。能町はすっかりはまった。

同僚にわからないよう別名でブログを始めた。題して、「オカマだけどOLやってます。」。

オカマという言葉がいいとは思わないが、「性同一性障害」は使いたくなかった。「障害を乗り越えて」と励まされるのは性に合わないし、病名で自分を語りたくない。「だって、『こんにちは。私、肺がんです』って変でしょ」

ブログは、2007年の手術で体も女になるまで続けた。同じ題で単行本になり、さらに文春文庫に入るほど人気を呼ぶ。能町は文筆業も始めた。

同僚には今も明かしていない。

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手術をした年、能町は上野に映画を見に行った。「のんきに暮らして82年…たぐちさんの一日」というドキュメンタリーで、大学で長く司書を務めた老人の引退後を淡々と撮っていた。

上映後、10人ほどいた観客のなかに内澤旬子(43)がいるのに気づき、能町は思い切って声をかけた。内澤は国内外の屠場をルポした「世界屠畜紀行」(解放出版社)を著し、能町はその姿を追ったテレビ番組を見てファンになっていた。

内澤が屠畜に興味を持ったのはモンゴルを旅した時、さっきまで草原を走っていた羊が夕食前にはバラされて女性に洗われているのを見てからだ。

日本では屠場で働く人が差別されてきたことは知っていた。内澤は思った。「差別の問題を前面に出すんじゃなくて、『どうやって食肉になるのだろう』というあっけらかんとした読者の疑問に、職人技に光を当てることで答えたい」。皮をはぎ、内臓を取り出す様子をスケッチとともに子細に伝えた。

能町が男だったことは、初対面のあとブログを読んで知る。美人の「文科系女子」にしか見えなかったので驚いた。

能町が自分に声をかけてきた理由も、ブログを読んでみるとわかった。そこには、性同一性障害のつらさより、内澤によれば「そうは言っても面白いことがあったりする日常」があった。2人で飲みに行っては恋愛や仕事の話をし、一緒にヨガ教室にも通うようになる。

内澤は数年前に乳がんと診断された。昨年からエッセー「身体のいいなり」を雑誌に連載している。闘病記とは違う。たとえば医者の説明が長すぎて頭に来た日のことをつづる。時間で料金が決まるからだ、と。

内澤は、がんで切除した乳房を再建した。その内澤が能町と愚痴を言い合う。

「形が気にくわない。何か違うんだよね」「そんなこと言ったら私だって、しょせん本物にはかなわないんですよ」

実は深刻な話を笑顔で交わす。人生、渋面だけではいられない。どうせなら面白がらなきゃ。

                             (渡辺周)

ニッポン 人脈記 男と女の間には(10) [朝日新聞「男と女の間には」]

朝日新聞夕刊連載「ニッポン人脈記」男と女の間には(10)

2010年9月27日(月)

5日ぶりに掲載の第10回は、ギタリスト・女優の石島浩太さん。

プロ野球の裏方(通訳・渉外担当など)から、女性になって、ギタリスト・女優に転じられた方。

うかつにも、存じ上げませんでした。
ブログはこちら↓
http://profile.ameba.jp/bloomykota/

中年になっての性別移行にもかかわらず、スレンダーでお美しく、うらやましい限り。
それにしても、なぜ男名前のままなのでしょうか?

同時に、いろいろな世界で、性別移行をした人が頑張って活躍しているのだな、ということを改めて思います。

ちなみに、石島さんが出演し主人公高峰譲吉(加藤雅也)の義母メアリーを好演した映画 「さくら、さくら ~ サムライ化学者高峰譲吉の生涯」(市川徹監督、2010年)は、東京では来春2011年公開予定。
譲吉の妻、メアリーの娘を演じたのが、私も面識がある歌手・モデルのナオミ・グレースさんです。

さて、残すところは3回。

第11回が歌手の中村中さん、第12回がタレントのはるな愛さん・・・と予想。

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ニッポン 人脈記 男と女の間には(10)
10回.jpg

ゆらり揺られて 私は
2006年、米国で開かれた初のワールド・ベースボール・クラック(WBC)で、日本は王者になった。

その夜、選手たちがシャンパンをかけ合う祝賀会場に、大会の裏方として奔走してきた石島浩太(48)の姿があった、喧騒が遠く聞こえていたのは、歓喜の渦にあって場違いなことを考えていたからである。
「やっぱり女になろう」

翌日、石島は女性ホルモンを打った。

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石島は幼い頃からスカートをはきたがった。ミニカーをもらっても興味がない。男の子であることがしっくり来なかった。

通信社の記者だった父の転勤で欧米、アジアを転々とする。転校すること17回、日本語を忘れた時期もあった。男か女か自分でも分からなくなるのに、母国の姿までぼやけてくる。

私は何者なのか。親類からは「おかま」、ロサンゼルスでは「ジャップ」と言われた。石島は揺らぎ続けて育つ。

どっちつかずでいる苦しさを忘れさせてくれたのが、白黒つける勝負の世界――球界での仕事だった。

1988年、26歳でダイエーホークスの通訳と渉外担当になる。97年には大リーグに舞台を移した。ヤンキースとメッツというニューヨークの球団で伊良部秀雄(41)や野茂英雄(42)の通訳を務め、日本人選手の大リーグ入りの交渉でも活躍する。

「野球がベースボールを追い抜く日」が夢だった。少年時代に米国で読んだ新聞記事では、大リーグの監督が「日本は2A程度」と語っていた。大リーグより2段も格下ということだ。

その日本野球が、WBCを制すまでになった。敬愛する監督王貞治(70)は、優勝の日、石島に「君も球界長いよな」と声をかけてくれた。張りつめていた気持ちが一気に緩んでいく。

代わりに頭をもたげたのが、忘れたはずの「私は女」という気持ちだった。

WBCから1年後、体つきが変わり、球界の仕事もほとんどしなくなった石島に、別居していた米国人の妻から離婚届が届く。大切な人との最後の糸も切れて呆然自失、石島はニューヨークでハドソン川に飛び込もうとして警官に保護される。地元のレノックス・ヒル病院の精神科に入院させられた。

石島はギターが得意で、大リーグの頃はマイク・ピアザ選手らとバンドを組んで演奏したものだった。その石島が、病院の娯楽室で弦が一部切れたアコーステックギターを見つける。

母国を思い、日本の子守歌を奏でたつもりが、石島の来し方を映して旋律はどこか無国籍の哀歓をたたえた。入院患者が集まって聴き入るようになる。

大小はあれ、人は誰しも揺らぎの中にいる。ましてそこは異邦人の街ニューヨークだった。

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退院後、石島は日本に戻った。ギターを手に細々とライブ活動をしていた昨年、また転機が訪れる。映画監督の市川徹(62)に女優にならないかと声をかけられたのだった。

市川は37歳でテレビ神奈川を辞めて独立し、タレント間寛平(61)主演の映画を手がけてヒットさせる。その後は不発で2億円の借金を抱えたが、ビデオ映画のシリーズで巻き返した。

今回撮ろうとしていた「さくら さくら」は、アドレナリンを発見した高峰譲吉を描く映画である。主役の加藤雅也(47)ら配役は順調に決まった。問題は、義母のメアリー役をどうするか。愛すべき女性だが、我が強く、高峰と大げんかする。

市川が知り合いから石島の話を聞いたのは、そんな時だった。男も女も経験している石島は、感情の起伏が激しいメアリーを演じるのにうってつけと思えた。英語力も申し分ない。
撮影に入ると、石島は皿を床にたたきつけ、高峰役の加藤を鬼の形相でののしった。本編には入らなかったが、市川は「あれには驚いた」。石島は「大リーグとの交渉では、あれくらい当たり前だったよ」と笑う。

裏方から表舞台へ。石島は今、大リーグについて講演し、ギタリストで、女優でもある。すべてが緩やかにつながって、どれも自分なのだと思う。

メアリーを演じた石島が驚いた巡り合わせがある。

高峰が67歳で亡くなった時の入院先は、石島がギターを弾いた、あのレノックス・ヒル病院だった。
                             (渡辺周)

「ニッポン人脈記」男と女の間には(9) [朝日新聞「男と女の間には」]

朝日新聞夕刊連載「ニッポン人脈記」男と女の間には(9)

2010年09月22日(水)

第9回は、鹿児島県在住の若松慎(36)・麗奈(38)ご夫妻です。

FtMの慎さんと、MtFの麗奈さんが、ご家族の理解を得て、結婚式を挙げるまでのお話。

このシリーは、先ほど担当記者からメールが来て、全13回で確定だそうです。
ということで、残りは4回です。
あと、誰と誰が登場するのでしょう?

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ニッポン 人脈記 男と女の間には(9)
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至って普通の結婚です
娘の恋人を前にした父親ほど落ち着かないものはない。

若松麗奈(38)の父親も例外ではなかった。急ピッチで酒を飲み、早々に泥酔してしまう。恋人の慎(36)は話を切り出すこともできなかった。

慎が「今日こそお父さんに話をする」と腹を決め、那覇市にある麗奈の実家を訪れたのは、2008年夏のことだ。

今夜も父親はさっそくビールを飲み始めた。3本目に伸びた手を遮って、慎が言う。「娘さんと結婚させてください。」

こちらも腹を決めたのだろう。父親は腰を上げ、台所で魚を揚げている母親を呼んでくると言った。
「はい、慎君もう一回」

こうして慎と麗奈は難関を突破した。よくある光景かもしれない。違うのは、慎は女として生まれ、麗奈は男として生まれたということである。

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横浜生まれの慎は、子どもの頃から「子分」を従えて釣りに行き、殴り合いのけんかも絶えない「男の子」ぶりだった。初潮を迎えると、生理がなくならないものかと冬に水風呂に入り、腹を自分で打ちすえた。30歳で性転換手術を受けた。

沖縄生まれの麗奈は、幼児の頃から姉のスカートをはいた。小学校では教師に「内股をなおす」と歩き方の練習をさせられる。中学校の前にある自宅の玄関には「おかま死ね」と落書きされた。27歳で性転換手術を受けた。

2人が会ったのは03年、冬の東京だった。鹿児島でニューハーフクラブのママをしていた麗奈と、横浜でダンプの運転手をしていた慎が、共通の友人と3人で会うことになったのだ。

慎と友人が羽田空港に麗奈を迎えに行った。ロビーの人ごみのなか、サングラスをかけて女優然とした人を見つけた慎は、麗奈に違いないと直感する。食事をする頃には「ずっとこの人とかかわっていくな」と思っていた。麗奈は麗奈で、「私にほれたな」と確信する。

この時、2人とも互いの出生時の性別を知らなかった。

麗奈を見送った後、慎は友人から麗奈が性転換したと聞いて驚く。どう見ても女以外の何者でもない。でも思った。
「自分と逆なだけなんだ。楽な人に出会ったな」

慎は自身の事情について麗奈にメールで知らせた。麗奈もまた、「自分が一番自然体でいられそうな」相手だと思った。

鹿児島と横浜を結んで遠距離恋愛が始まる。

麗奈の店は月曜が定休日だった。日曜の夜に飛行機に乗り、月曜の最終便で戻っていく。そうでない日は、仕事で朝が早い慎を起こすためにも、麗奈は毎日電話した。それでも足りない。2人の月の携帯電話代は合わせて15万を超えた。

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性同一性障害特例法ができ、戸籍上も性別が変えられるようになっていた。2人は08年2月にそれぞれの変更を済ませると、その年の10月17日、婚姻届を鹿児島市役所に出した。慎の誕生日である。

鹿児島市のホテルで開いた披露宴に、慎の母親と麗奈の両親は出席した。慎の父親は「気持ち悪い、おれにかかわるな」と言って欠席している。

新婦入場の際。麗奈の父親はタキシード姿で麗奈を慎のもとへ導いた。麗奈の着物の足もとを気遣いながら、ゆっくりと歩みを進める父親に、袴姿で待ち受ける慎は鳥肌が立った。
「おれもこんな男になりたい」

最後は慎が両家を代表してあいさつに立った。
「心と体を一分一秒でも早く一緒にしたいと悩み続け、母親は『男の子に産んであげられなくてごめんね』と泣き崩れました。でも、今日という至って普通な結婚式を迎えました。お互いの性を変え、結婚もできるようになった今の世の中、何より両家の両親に感謝です」

2人は鹿児島市で5匹の犬と暮らしている。慎が顔をしかめていた麗奈のカレーライスも、今では上々の出来だ。

慎が麗奈の父親に結婚を切り出したあの日、普段なら酔ってソファで寝てしまう父親が自分の部屋に引き揚げていった。

理由については2人の意見が分かれる。慎は、娘を手放す寂しさだと言う。麗奈は、自分がちゃんと伴侶を得られたことの安心感だと思っている。

(渡辺周)

「ニッポン人脈記」男と女の間には(8) [朝日新聞「男と女の間には」]

朝日新聞夕刊連載「ニッポン人脈記」男と女の間には(8)

2010年09月21日(火)

第8回は、東京新宿のニューハーフ・クラブ「メモリー」のママ、瞳条美帆さん(39)と、モデル&タレントの椿姫彩菜さん(26)の登場です。

テレビ出演で知名度があり、あちこちで語られている椿姫さんではなく、美帆ママをメインにもってきたあたり、なかなか心憎いです。

私が「メモリー」に最初に遊びに行ったのは、たしか1997年で、今から13年前。
「メモリー」が歌舞伎町区役所通り(歌舞伎町2丁目)に進出してきた直後でした。

私がお手伝いしていた区役所通り(歌舞伎町1丁目)の「ジュネ」の常連客で、新宿の女装者好き男性(女装者愛好男性)のドンのSさんに、「おい、順子、ちょっと付き合え」と店外デートに誘われ、連れて行かれた先が「メモリー」でした。

Sさんにしてみると「挨拶」&偵察だったのでしょう。

そのとき、若いのに、やり手のママだなぁ、と思った記憶があります。
そうか、あの時、美帆ママは、まだ26歳だったんだ・・・。

このシリーズも、残すところあと3回。

私がW記者から聞いているところでは、「取材した」人で、まだ歌手の中村中さんと、タレントのはるな愛さんが出てきてません。

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ニッポン 人脈記 男と女の間には(8)
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厳しくても心のままに
瞳条美帆(39)は、男子高校の1年生だった。

東京に生まれ、幼い頃から女の子のようだった。男子高に進んだのは、父親が「男らしく鍛え直そう」と思ったからだ。

美帆は「僕」を使うようにし、がに股で歩いてみた。自分が自分でないようで、とても耐えられない。殻に閉じこもるようになった。

一人の同級生が、その殻を破った。

1年生が全員参加する合宿のバスで、美帆が音楽を聴いていた時のことだ。誰かにいきなりイヤホンを外された。
「おまえ暗いな。一緒に話そうよ」

意外だった。入学時にライオンのような金髪を先生に注意された生徒で、美帆は「怖い、『おかま』っていじめられる」と警戒してきた。

だが美帆は彼にひかれていく。授業中、ノートの切れ端に「好きです」と書いて丸めて投げた。同性としてではなく、女として彼が好きだった。

家も学校も自分たちのことを認めてはくれない。それなら――。美帆は彼に駆け落ちを持ちかける。どうせ学校つまらないし、と彼も乗った。

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親同士で東京の繁華街を捜し回り、警察に捜索願も出したころ、2人は名古屋にいた。

18歳だと偽り、家出してきたことは内緒で新聞販売所に電話した。「じゃ今から面接においで」と男の所長が言う。夜の9時過ぎに着くと、所長は開口一番、「おなかすいてない?」。2人でうなずいたら、中華料理店に連れていってくれた。

「今晩は体を休めて、2人でよく考えなさい。それでも働きたいと思うなら明日おいで」
2人は翌日から働き始める。風呂なし、トイレ共同の4畳半に住み込んで、朝夕刊の配達から集金、営業までやった。

親元にいる時は、水や電気はあって当たり前だった。自力で暮らしてみると、「生きるってこんなにお金がかかるんだ」と親のありがたみが身にしみる。

丸1年がたった日、美帆は公衆電話から実家へ電話した。「捜さないでね」という美帆に、母親は「元気ならそれでいい」と声を詰まらせた。父親は電話口に出てくれなかった。

2年が過ぎた。ささいなことで彼とけんかするようになっていく。ある夜、寝る前に美帆が「一生一緒だよね」と声をかけた。返事がない。間を置いて「ねっ」と言った。無言。明かりをつけると、彼は涙を流していた。

限界だった。

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東京に戻った美帆は、20歳の時に新宿でニューハーフクラブ「メモリー」を始めた。10坪で始めた店は軌道に乗り、歌舞伎町で新装開店することになった2004年秋、一人の少年が面接に訪れる。後にタレントになる椿姫彩菜(26)だ。

彩菜もまた、心と体で性が違うことに苦しみ続けていた。家族にわかってもらえず、絶食して死のうとしたこともある。

美帆を訪ねた時は20歳で、その年に性同一性障害特例法が施行され、日本でも「性の不一致」への取り組みが広がりつつあった。「何てタイミングなの。神様が背中を押している。体も女になろうと決めた。青山学院大学を休学し、家を出る。

美帆は彩菜をホステスとして採用した。手術費を稼ぐため、彩菜は懸命に働き始める。

翌年の元旦、美帆は、一人暮らしで実家に帰れない彩菜を自宅に誘った。その頃には両親と暮らしていた美帆は、苦しい時によくしてくれた新聞販売所の所長のように、彩菜に手作りのおせちをふるまった。

彩菜を送る道すがら、年末から掛かったままの「年越しそば始めました」の看板があった。彩菜が、母親の年越しそばを思い出して泣き出した。美帆は彩菜の手をギュッと握った。

メモリーという店の名は、ミュージカル「キャッツ」の劇中歌からとっている。駆け落ちから戻った後で公演を見た美帆は、劇中の野良猫に自分を重ね合わせていた。

「厳しいことが多いけれど、心のままに強く生きている」

同じ境遇で、夜の仕事に向かない人もいる。そんな人たちが「心のままに」生きるために、私は何ができるだろう。美帆は、昨年8月、昼間でも働けるタイ料理の店を新宿に開いた。

                               (渡辺周)

「ニッポン人脈記」男と女の間には(7) [朝日新聞「男と女の間には」]

朝日新聞夕刊連載「ニッポン人脈記」男と女の間には(7)

2010年09月16日(木)

第7回は、大阪ミナミのニューハーフ・ショーパブ「ベティのマヨネーズ」のママ、ベティ春山さん(54)の登場です。

このシリーズ、「『男と女の間』の人」=性同一性障害の人と思いこんで、性同一性障害者の特集であるかのように思っている人がいるようですが、まったくの誤解です。

「『男と女の間』の人」は、性同一性障害の人ばかりではありません。

いえ、むしろ「『男と女の間』の人」という点では、生まれた時と反対の性への同化を強く願う性同一性障害の人たちより、開き直って「第3の性」を生きているニューハーフやトランスジェンダーの方が、よほどふさわしいのです。

それはともかく、ベティママ、私と1つ違いだったんだ・・・。
(調べたら、1955年11月生まれだから、同年&同学年じゃん)

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ニッポン 人脈記 男と女の間には(7)
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ニューハーフ 薩摩に帰る
今宵あなたと梅田のモーテル 帰りたくない気持ちもいいじゃない

作者の桑田佳祐(54)を前に、ベティ春山(54)は上がってしまってどうにもうまく歌えずにいた。この「I LOVE YOUはひとりごと」がデビュー曲になるというのに、レコーディングは一向に進まない。

1981年、大阪で「おかまバー」のホステスをしていたベティは、桑田の事務所の有力者が来店した縁でレコードを出すことになった。ベティは25歳、サザンオールスターズの桑田は同年代とはいえ時代の寵児である。

ベティの緊張が解けないまま数時間が過ぎた。嫌な空気を払って桑田が言う。「ねえ、ベティはどこの国のハーフなの?」

西洋人のような顔立ちを見て、桑田は勘違いしたらしい。ベティが言い返す。
「ばかねえ。男と女のハーフじゃないの」

スタジオは笑いに包まれた。これはいいと、ベティを「ニューハーフ」と称して売り出すことが決まる。以後、男だったが、女としてタレントやホステスをしている人たちを広くニューハーフと呼ぶようになった。

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きらびやかな世界で「元祖ニューハーフ」となったベティは、鹿児島県の山あいに広がる錦江町で生まれ育った。

九州男児は男らしく」という薩摩の地で、編み物が好きな男の子は、すっかり浮いた。「おなご」と呼ばれ、石材師の父は息子の髪が伸びると「丸刈りにしてこい」と命じた。

ベティが我が意を得たりと思ったのは20歳の頃、進学先の大阪で遊びに行った店で女装の美人を見た時だ。さっそく自分も「おかま」として働き始める。29歳で大阪・ミナミに「ベティのマヨネーズ」を開店し、「宝塚と吉本の要素がある」ショーを売りにした。

そんなベティに、郷里は渋い顔を見せ続ける。父の葬儀に帰れば冷たい目が待っていた。ベティは手を合わせながら思った。「父さん、私ってそんなに恥ずかしいですか」

頑固な父だった。でも、大阪に出る時には10万円をこっそりカバンに入れてくれた。

郷里にも、理解してくれる人がいなかったわけではない。アルバイト先だった電器店の後継ぎ水流(つる)秀作(50)は、帰省するたびに車で送り迎えしてくれた。

5歳下の水流をベティは幼いころから可愛がっていた。水流にもベティは風変わりと映ったが、2人はなぜか気が合った。ベティがニューハーフになっても変わらない。水流が大阪のベティの店に遊びに行った時は、ショーに感嘆して帰ってきた。

ベティの帰省は、人目に付かないよう夜遅く来て、朝早く出るのが常だった。ベティが大阪に戻ると、水流は地元のスナックで「I LOVE YOUはひとりごと」を歌った。

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レコードは売れなかったが、ベティはニューハーフとしてテレビに出ることが増えた。すると郷里の視線も和らいでいく。応援する声も上がり始めた。水流は「みんな勝手なもんだな」と思わないわけでもない。ニューハーフという言葉が、侮蔑的に使われることの多い「おかま」に取って代わりつつあった。

町の人たちに応えようと、ベティも動く。35歳の頃から地元の老人ホームで毎年、慰問コンサートを開くようになった。

ベティの母もここに入所していたが、4年前に89歳で他界した。「姿形がどうなっても、自分にとっては息子です」とテレビで言ってくれた母だった。亡くなる直前の夏、祭りの花火を見ながら一緒に写真を撮ったのが最後の思い出になった。

コンサートはいつも高校の先輩の司会で、音響は水流が担当している。ベティは今年も5月、ホームで100人ほどのお年寄りに懐メロを歌って聴かせた。小さい頃からの顔見知りも多い。「おかあちゃん、帰ってきましたよ。いつまでも元気でいてね」。涙ぐむ女性もいる。

ベティは言う。
私は強い。だけど寂しいというのは別物。ここで励まされているのは私の方なのよ――。実家も既になくなった。それでも、この町はベティの帰る所であり続けている。
                      (渡辺周)


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