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「半玉体験記-ある大先輩の思い出話・1960年代初頭の女装世界-」 [性社会史研究(性別越境・全般)]

2013年2月10日(日)
「半玉体験記」はある女装世界の大先輩(仮名:文枝さん)にうかがった思い出話をもとに構成したものである。

この出来事があったのは1961年(昭和36)2月、文枝さんは21歳、都内某有名私立大学の学生だったが、生活費稼ぎのために青山にあった「音羽(おとわ)」という歌舞伎系和装ゲイバーでアルバイトをしていた。

お話をうかがったのは2001年、インタビューという形ではなかったので、録音はせず、メモをとっただけだった。
したがって、会話の細部はそのままではないが、内容的にはほぼうかがった話のままである。

あらたまった形で採録した話ではないので、学術資料として使えるかは微妙だが、昭和30年代中頃(1960年代初頭)の女装世界の一端をうかがう話として興味深いので、ここに紹介する。

なお、歌舞伎系和装ゲイバー「音羽」については、下記を参照のこと。
三橋順子「日本女装昔話 【第9回】 歌舞伎女形系の女装料亭『音羽』」
http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/junkoworld3_3_09.htm
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F「あれは2年生の春休み、2月の中頃だったと思う。学年末試験が終わって、ほとんど毎日のように店に出ていたら、文哉ママに呼ばれて『いいアルバイトあるんだけど』と言われた。まあ、察しはつくよね、プライベートで誰かお客さんの相手をしろってことだと。『どなたですか』と聞いたら『お店のお客さんじゃないわ。あなたが知らなくていい人よ』と言う。少し不安だったけど、なにしろ苦学生で、お金なかったからね。店でもらうお金はだいたい毎月の下宿代と生活費で消えちゃう。それだと学費の算段がつかないんだ」
J「ああ、学費ですか。それで引き受けたんですね」
F「そう。ママから日時と旅館の名前が書いてある紙、あとその旅館のマッチを渡されて、ともかくそこへ行けって」
J「マッチですか?」
F「そう、マッチ箱、商売屋が客に配る、電話番号が書いてある」
J「ああ、なるほど。それで、旅館の場所は?」
F「東横線に綱島って駅あるの知ってる?」
J「はい、私、東横沿線なので」
F「あそこは、昔、綱島温泉って言ってね、温泉旅館が何軒かあったんだ。今はもうないと思うけど」
J「はい」
F「でね、指定の日の午後に渋谷から電車に乗って行った。綱島の駅前に地図が有ったから、電話を掛けるまでもなく旅館の場所はすぐにわかった。指定は16時だったけど、少し早めに着いた。玄関入って案内を請うと、女将さんらしい小柄な中年の女性が出てきて『〇〇さんですね』と尋ねるので『はい』と返事をすると、『お上がりください。お話はうかがっておりますので』と言う。通されたのは、普通の座敷で、座る間もなく『まず、お湯をお使いください。こちらにどうぞ』と風呂場に案内された。『それと、お顔はしっかり当ってください』と言われた。そこはまあ、いつものことだから、体を洗って髭をきれいに剃ってね。用意されていた浴衣と丹前に着替えて、元の座敷に戻ると、鏡台が部屋の隅から引き出されていて、そこに座らせられた。それで女将さん自ら顔を作ってくれた」
J「本化粧ですか?」
F「そう、水白粉で。店で何度も経験しているから手順はわかっているけど、自分でやるよりずっと念入り。顔、首、背中、胸、それと、手首から先も塗ったな。で、眉描いて、目張り入れて、紅さして…」
J「時間、かかりますね」
F「そうでもないよ。慣れている人の手は早いから。1時間ちょっとくらいかな。でね、化粧が終わったら、『しばらく行けませんから、どうぞ』って厠に案内されて、戻ってきたら、女将さんが『お着付けします。お任せください』と言う。いまさら嫌も応もないから、『はい』とだけ返事した。そしたら、全部脱がされて真っ裸。で、緋の湯文字、緋色の腰巻と着けられていくわけ。ああ、これは本格的だなと、今更ながら思った。自分では芸者の姿にされるのかなと思っていたら、長襦袢の袖が長い。着せられたのは大振袖。紫に紅白の梅の柄だった。店で着ているものよりずっと良いものだというのもわかる。帯は錦の上物を後見結びにしてね。ああ、半玉だなって。半玉、わかる?」
J「京都でいう舞妓のことですよね」
F「そう芸者の見習いを関東では半玉っていうの。舞妓と違って着物の裾は引かないんだよ」
J「あっ、そう言えばそうですね」
F「鬘は桃割れ。梅の花簪をさしてね。驚いたのは鬘がぴったりだったこと。少し大き目に作ってあったのかな。で、一度、鬘を合わせたのに、女将さん、鬘を取るんだ。あれ?と思ったら、『このまま、お呼びするまで、ここでお待ちください。鬘は後でちゃんとしますから』と言って行ってしまった」
J「何時頃ですか?」
F「何時頃だったかな?ともかく外はもう真っ暗。何もすることないわけ。それで、鬘は自分で被り方わかっているから、被ってね。姿見に映して。普段は芸者姿だから、半玉姿が新鮮でね。けっこう自己陶酔していた」
J「どのくらい待っていたんですか」
F「30分、いやもっとだな、1時間近くかな、そこらへんになると時間の感覚がなくなっちゃってね」
J「はい」
F「やっと、女将さんが戻ってきて、鬘をつけ直してくれた。で、手を引かれるように、廊下を進んで、奥の座敷へ連れて行かれた。女将さんが『お連れしました』と声をかけて座敷に入る。自分も後に続く。座敷には立派な和服を着た白髪頭の老人が杯を傾けていた」
J「何歳くらいの方ですか?」
F「当時は自分が若造だったから、かなり年配に見えたけど…、そうだなぁ60代だったと思うな。三つ指ついて『初めまして。文枝です。よろしくお願いいたします』と挨拶した。女将さんが『こちらに来てお酌なさい』と言うので、ご老人の横に座ってお酌をした」
J「それで…」
F「ご老人はもっぱら女将と話しているから、黙ってお酌してるだけ。そこらへんはいつも店でやっていることと変わりないから。たぶん、食事はもう済んでいて、くつろいでいるって感じで、お酒のペースもゆっくりだった。それで、ときどき、思い出したように質問してくる」
J「どんなことですか」
F「う~ん、よく覚えていないな。『いつから店に出た?』『1年ほど前からです』『学校行ってるのか?』『はい』みたいな感じだったと思うな」
J「それで…」
F「うん、それで、お床入りさ。隣の部屋に豪華な夜具が延べてあった。ご老人が女中さんに案内されて、お湯に行く間に、そっちに移動。女将さんが付いてきて、帯を解いて振袖を脱ぐのを手伝ってくれた。で、去り際に『いいですね、何をされても我慢するのですよ』と念を押す。内心、小娘じゃあるまいし…と思った。恰好は小娘なんだけどね。「はい」と返事して、長襦袢姿で夜具の裾に座って待っていた。長襦袢はお七鹿の子だった。お七鹿の子ってわかる?」
J「はい、地が緋色と水色で鹿の子柄」
F「あなた、若いのにいろいろよく知っているね。話が早いわ」
J「ありがとうございます。それで…」
F「ご老人が戻ってきて、同衾かなと思ったら、『腰を揉んでくれ』と言う。それでマッサージの真似事をしていたら、ご老人の手が尻に伸びてきて、まあこっちもわかっているから、触りやすいようにお尻を寄せてさ。その内、『揉むのはもういいから、ここに横になりなさい』と言う。鬘付けたままだから、箱枕あてて仰向けになった。ご老人が裾を開いて、長襦袢とお腰をまくる気配、いよいよかなと思ったら…」
J「思ったら…」
F「いきなり、咥えられた」
J「え~っ、ご老人が文枝さんのを…ですか?」
F「そう、ほんとうにいきなり。普通だったら手で触ってとか、撫でてとか、手順があるじゃない。さすがに驚いたよ。ところが、けっこうというか、とても上手なのさ。で、高まってきて、身もだえしたら、ますます激しくしゃぶってくる。とうとう放ってしまった。ご老人の口へ」
J「え~~っ! それで…」
F「それだけ。ご老人、全部飲んでしまったんだと思うよ。自分は、なんだか魂抜かれたみたいな感じでね。ああ、そうだ、思い出した。ご老人、ちゃんと後始末してくれたんだ。あそこに花紙をあてて、長襦袢の裾を直して…。あと、去り際に『ご苦労さん、ゆっくり休んでいきなさい』って」
J「へ~~ぇ、それだけ? それだけでご老人、帰っちゃったんですか?」
F「そう。帰っちゃった。自分としてはそれこそ一晩中、弄ばれるのかと思って覚悟してたからね、なんか拍子抜けしちゃって。しばらくそのまま虚脱してたら、女将さんが入ってきて、お湯へ連れて行ってくれた。身体を洗って、化粧も落として。普通の浴衣に着替えて、最初に化粧した部屋に戻ったら、布団が延べてあって、女将さんが『もう遅いですから、お泊まりなさい』と言う」
J「それで…」
F「朝は、普通の旅館のような食事が出て、食べ終えてお茶を飲んでいると、女将さんが入ってきた。『御礼』と書いた熨斗袋を渡しながら『おわかりでしょうが、くれぐれも口外なさいませんように』と念を押す。『はい、承知しています』と答えると、風呂敷包を指して『こちらのお着物と長襦袢、よろしければお持ちになります?』と言う。こっちは熨斗袋の中身が気になっていて、つい『けっこうです』と言ってしまった。そしたら、『では、こちらで処分いたします』と行ってしまった」
J「もったいない」
F「そうなんだよ、店に戻って文哉ママに報告したら『あんた、馬鹿だね、自分で着なくても売ればいいだろう。いいお金になるのに』と怒られた」
J「そうですね。上等の大振袖なら、今のお金に直せば50万円とかですよね」
F「そうだな、もっとかも。でも、自分としては学費稼ぎのバイトのつもりだったからね。お金の方に頭が行ってたんだと思う」
J「で、失礼ですけど、熨斗袋の中は?」
F「聖徳太子の大きいのが3枚」
J「聖徳太子って当時の一万円札ですよね。昭和30年代後半の3万円って、今の貨幣価値に直すと、だいたい10倍くらいだから、30万円くらいになると思います」
F「うん、だいたいそんなもんかな。それから2年後に自分がもらった最初の月給が2万円だったからね。ああ、そうだ、学費がね、年間3万円だったの。普通は半期で納めるから前期分は1万5千円なんだけど、その年度だけは前後期一括納入だった」
「よかったですね」
F「礼金だけじゃないよ。あのご老人、わざわざ着物を作らせてると思うんだ。で、旅館には料金のほかに口止め料をたっぷり弾んで、当然、文哉ママにも紹介料が渡っていたはずなんだ。つまり、女装した『娘』の精を吸うために、一晩に、今のお金にして100万円以上を使っていると思う」
J「すごいですね」
F「金持ちの道楽と言えばそうだけど、ある意味、いい時代だったのかもしれないな」
J「はい」
F「それとね、ご老人だけど、どこかで見たことがあるなと思ったんだよ。そうしたら、就職して少し後に、新聞を見ていたら、ある偉い人の訃報が載っていて、その写真が…」
J「ご老人だったんですね」
F「うん、まあ、誰だかは言わない方がいいね」
J「はい、そこまでうかがおうとは思いません。今日は、貴重なお話、ありがとうございました」

【資料紹介⑥】「男芸者ナンバー・ワンになるまで」 [性社会史研究(性別越境・全般)]

2013年2月9日(土)
【資料紹介⑥】佐藤ひふみ「男芸者ナンバー・ワンになるまで」(『100万人のよる』1959年9月号)
「足を洗った夜の特殊技術者たち」という特集の中の「佐藤ひふみ」という「女装芸者」(実態は女装男娼)の手記。

出身地(徳島県)、「千万億(ちまお)」という本名、経歴、容貌、「ひふみ」という女性名などから、1961年秋に「性転換ストリッパー」として有名になる「吉本一二三(ひふみ)」と同一人物であることは確定的。
吉本一二三の「性転換」以前の経歴がわかる興味深い資料。

なお、吉本一二三の「性転換」以前の写真としては、広岡敬一『昭和色街美人帖』(自由国民社、2001年6月)掲載の写真が知られている。
このうち洋装の写真を『100万人の夜』の「佐藤ひふみ」の写真と比べると、V字模様のワンピースが同一であることがわかる。
資料6-7.jpg資料6-8.jpg
(左)芸者姿の吉本一二三 (右)洋装の吉本一二三(いずれも1952年頃)
 広岡敬一『昭和色街美人帖』(自由国民社、2001年6月)より
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(長い手記の書き起こしをしてくださった谷屋正子さんに、感謝いたします)
資料6-1.JPG
足を洗った夜の特殊技術者たち 第1の手記 佐藤ひふみ
男芸者ナンバー・ワンになるまで
 (『100 万人のよる』 1959年9月号)

女以上の女となれ  転性手術を断られて発奮しました
私が東京に出てきて、はやいもので、もう六年にもなります。
永井明子さんとかいう人でしたが、男性から女性へと転性手術をして成功、キャバレーでシャンソン歌手として第二の人生に出発したことを、新聞記事で読みました。それが住みなれた大阪の街をあとにする原因になつたのです。そのとき、まだ十八歳になつたばかりでした。
いま考えて見ればお笑いグサですが、東京にいつて永井さんが手術を受けた病院にいけば、私も完全な女性として生れ変ることができるのだ……、いちずにそう思い込んでいたのでした。
私は吉原でバーを経営していたお清姐さんをたよつて上京したした。大阪は私たちの仲間は大ぜいいましたが、東京にはまだそれほど多くはありませんでした。だからお清姐さんは私がきたことを心づよいといつて喜んでくれました。
けれども上京した理由を聞くと、
「そんなことができるのかしら、できるのだつたら私だつてとうの昔にチョン切つているよ」
と笑われてしまいました。そして、
「女形というものは体のつくりは男であつても、女以上に女らしいことがひとつのプライドにもなつているのだよ」
と、お説教されました。
資料6-3.JPG資料6-2.JPG
しかし、姐さんの注意もそこそこに場所を教えられて四谷の慶応病院にいきました。そこで永井さんが手術した、と聞いていたからです。
名前は忘れましたが、エラそうな先生の診断をうけました。さいしよ「そんなことはウチではやつていないのだから」と断わられましたが、たのみかたが熱心だつたのと、男だか女だかわからないのが、東京では珍らしい関西弁でまくしたてるので、受付で閉口したせいかもしれません。とにかく診察してくれました。
ところが結果は、がつかりでした。
その先生からは、「立派な男性です」と太コ判をおされてしまつたのです。
転性手術というものは、両陰陽の持ち主で、男か女かどちらかの傾向の強いほうにきめることはできても、完全な性の持ち主をその反対の性に変えることはできない、ということを聞かされました。
私は、ジャマな物をチョン切ってもらつて穴をあけてもらえばそれですむのだ、と簡単に考えていたのでしたが……。
私は期待をうらぎられてガッカリしてしまいました。これでは恥ずかしくて大阪にもかえれない。「東京にいつて、体も女になつて帰つて来ます……」と。勇んで出発したからでした。
でも仕方がありません。それならしばらく東京で働くことにしようと、浅草の国際劇
場の横にあるアパートに部屋を借りました。
「体を女にすることができなかつたかわり東京の女形のナンバーワンになつてやろう」
と決心したからです。

「やーい、オトコオンナ!」 小学校を中退ドサ廻りの女形になりました
ところで、「わて女なのに、なんでこない男の子みたいなモンついてんやろ」と、私が不思議に考えるようになつたのは小学校にあがる前からでした。
生れたのは四国の徳島県。家は商人で、私は六人兄姉の末つ子でした。
そこで祖母の溺愛をうけて育ちました。それが現在の自分というものを運命づける結果になつたものかどうか、とにかく髪も長くさせられ、赤いきものを着せられて育てられました。男二人、女四人の兄姉のなかで私は女の末つ子のようにされながら大きくなつたのです。
自然、小学校でも女の子ばかりと親しくしていました。祖母が芸事を好きだつたこともあり、幼いころから日本舞踊をみつちり習わせられました。小学校時代、そんな私が同性たちにうけるはずがありません。
「オトコオンナ、オトコオンナ」
と呼ばれていつも仲間からはずされていました。
そんなことで、いつか学校にいくのがたまらなく嫌になりました。「どうして男の子なんかに生れたのだろう」と考えだしたのは、そのころからです。親からもらつた千万億(ちまお)という名前にさえ憎悪を感じはじめた私でした。
小学校を卒業するとすぐ私は、役者になるといつて旅廻りの一座にはいりました。東京大歌舞伎「中村芝歌大一座」という十五人ばかりの劇団で、四国を巡業していました。十三歳でしたか、あのときは。これが私の運命を決定的にしました。
子供から女形、そして座長の芝歌に私は“女”にされたのです。
さいしよから私はそれがイヤではありませんでした。さいしよのとき恥かしかつたことだけをおぼえているだけで、あとは、むしろ快い思い出がのこつています。
商売のさいしよは大阪の釜ケ崎でした。――飛田の遊郭に近いこのあたりは男娼で全国的に有名なところですが、一座が大阪でゴナンを喰つて解散したとき、私はここへ飛びこんだのです。故郷にはかえる気がありませんでした。
こんな私を受け入れてくれるところではないと考えましたし、同性を恋しがる私の生きていけるところでもないと知つていたからでした……。
資料6-5.JPG資料6-4.JPG
バレないために先制攻撃  長ジュバンだけは決して脱ぎませんでした
さて、東京に出てきた私はたちまち流行つ児になりました。
日本舞踊と舞台できたえたことはムダではなかつたし、そのころの女形のなかでは、いちばんの若手だつたことも強かつたのでしようか。
どうせかせぐのなら、というわけで新橋と銀座を職場にえらびました。衣装には金がかかるが、それなりに収入もよいです。
私たちのかせぐ区域は自然ときめられていました。新橋と田村町の中間から西銀座の一帯がそうです。不思議にほかの場所にいつても、思うように客がつかないのです。
客はいろいろです。キモノ姿に、たまには日本髪のカツラをつけて出かけるので、ことに珍らしがられました。女形だと知つて誘うもの、それと知らずに誘うものとは半々くらいでした。
知らずに誘う客にはさいごまで女形とはわからさずに満足させてかえす。それが私たちの腕というものなのです。客の求めるモノ、それを与えてかえすのだから、決してサギ行為ではないと思いますが……。
「この客は私のことを女形だとは思っていないな」
そう感じると部屋に入るなり、いきなり体当りをくらわせるのです。
くらわせる、といつても何も乱暴をするわけではありません。一年間も想いあつていながらめぐりあうチャンスのなかつた恋人同士が、お互の情熱をぶちまけるように……といつたようで、いきなりサービスを始めることなのです。つまり、先制攻撃をかけるわけです。
ほとんどの客が面喰つてしまいます。「ちよ、ちよつと待つてくれよ」とあわてるが。こちらはおかまいなしだ。マゴマゴしていて、さぐられたりして女形であることがバレては面倒になります。日本の楽器の名になぞらえた行為、これは普通のパン助はよほどのことがなければやつてくれはしませんが、それで客はいいかげん変な気持になつてくる。
その行為だけで満足してしまう客もおおいのです。
「あらもう駄目なの、だらしがないわね」
だが、それ以上求められたばあい、電気を消して私は長ジュ袢一枚になるのです。決してハダカにはなりません。バレてしまうからです。
あとは私の手も足も全身で彼にサービスします。男性と女性の場合の感じは、じゆうぶんにそれで与えられるものです。
ナジミになつて私のところに通つてくる客のうち、いまだに女形であることを知らないものが五人くらいはいます。ほんとうです。
あとからバレたことはあつても、プレイがすむ以前にバレてモメたことは、まだ一度もありません。それが私の誇りでもあるわけなのです。

オイオイ泣きだした旦那 「浮気だけはしないでくれ」と懇願するのでした
ところで旦那をもつたことは一度だけあります。
Yというその旦那は、六十歳をすぎていました。さいしよ新橋であい、女形と承知のうえでつきあいました。そして彼から毎月五万円のお手当をもらう身分になつたわけですが、これは半年もつづきませんでした。
浅草橋の問屋の旦那であるYはすべての道楽をしつくした男でした。もつとも女形にこる男のほとんどがそれなのですが。
一ヵ月のかせぎが十万円をくだらなかつた私にとつて、五万円のお手当では不足でしたが、街に立つことにくたびれていたし、Yを多少なりとも愛していたことが世話になる決心をつけさせたのです。Yは毎日、私のアパートに通つてきました。
「お前のような美人はいない」
それが彼の私に対するコロシ文句でした。
男と男とが愛し合うことに不思議さを感じる人もすくなくないようですが、女としての器官にかけていたとしても、愛しあうことは出来るのです。たぶんに精神的なものが先行はしますが……。
キッスを交し、お互いに愛撫しあつて、そのあとは前からうしろからの相違があるだけのものなのではありますまいか。
私がエクスタシーにおちいるとき、そのときの現象は女形とはいえ男性となんら変つたところはありません。
余談はさておき私は浮気者なのでしようか。やがてYにだけ独占されることにあきたらなさを感じはじめました。
Yの目をゴマ化して、ときどき銀座に現われましたが、それはすぐYの目についてしまいました。Yは怒りました。
「じや旦那、奥さんと別れるのだつたら私も浮気を止める」
私がそういうと彼はそうするといつて、泣きながら私に浮気だけはしないでくれ、と哀願したものです。
けれども一軒の店をかまえて大きな息子さんまでいるYが、私が本当の女だつたらまだしも、女形であるだけに世間態もあることだし、そんなことの可能なはずはありません。
泣く泣くその人は別れました。もつともYはいまでも客として通つてくれていますが……。
資料6-6.JPG
目の前には奥さんがいて  「レクリェーションですね」と笑うのでした
長い間やつていると不思議な客にもよくぶつつかります。
去年の春のこと、ある日、りつぱな中年の紳士に声をかけられて連れていかれたのは世田谷のほうでした。しかもそれは彼の自宅なのです。車のなかでその男は、不愉快かもしれないがいうことをきいてくれといいながら私に一万円を前払いしてくれました。
気前のよさと、引導をわたされたことにかすかに不安を感じさせられましたが、ケセラセラ、とかまえこんでさて玄関を入ると、その奥に向って「お客さんを連れて来たぞ」と怒鳴りました。
するとあらわれたのはやはり中年で、ちよつと病的な感じのする奥さんでしたが、奥に通され、洋酒を出されました。奥さんもいつしよでした。やがて
「今夜はうちに泊つていきなさい」
といわれて寝室に通され、そこでやつと彼が車のなかでいつた「不愉快だろうが」の意味がのみこめました。つまり奥さんの前で紳士と私は実演させられたわけなのです。
奥さんは首のところまで布団をあげて、そのフチをにぎりしめて私たちを見つめていました。そして、つぎに彼と奥さんとの……
「これがレクリエーションでね」
つぎの朝、その男は照れたような表情で私に申しました。ふと見ると奥さんも朝食の御給仕をしながら、恥じらいをおさえているような風情でした。

オカマで悪かつたわね  十年間で一千万円ためた仲間もいますが
ところで私は人にあうと、よく、ずいぶん金を貯めただろうといわれますが、着物は残つても金はなかなか残らないものです。女形の仲間で財産家はEちやんでしよう。彼女は関西の女形ではなく、東京の女形です。
女形は関西が本場とされているのに場違いにお株をとられてはシャクですが、情にもろいから関西の女形はもうけられない、ということになれば、シャクにさわりかたもすくなくなるというものです。
Eちやんの商売は荒つぽいことで有名です。私たちがさいごまで女であることに努めるのに反して、彼女は客を連れ込んでしまえばそれまでなのです。
時によつてはかえつて客にバレることを望んでいるようですらあります。
「何だオカマじやないか」
とでも客にいわれればシメたもので、
「何さ、オカマで悪かつたわね」
大アグラでタンカをきりだす。
女形のタンカというものは不気味なものらしいですね。しかも中味は二十二、三の若者。たいていの客はタジタジとなります。
「約束どおりのお金はもらうわよ」
アソベ、といわれも客のほうではすでに戦意を失つてしまつている。二千円なり三千円の金がまきあげられる。これが本当のヤラズブッタクリというものでしよう。
彼女は一昨年、麻布に四百万円かけてアパートをつくりました。そのほか銀行預金もあり、十年間ほどのかせぎは千万円をくだらないだろう、とウワサされています。
しかしそういうカセギかたは、やはり邪道だと私は思つております。

【資料紹介⑤】「男から女に性転換のストリッパー」 [性社会史研究(性別越境・全般)]

2013年1月24日(木)

【資料紹介⑤】「男から女に性転換のストリッパー」(『土曜漫画』1961年12月22日号)
【資料①②③④】と同じく吉本一二三と高橋京子による浅草ロック座の公演を紹介したグラビア記事。
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男から女に性転換のストリッパー
資料5-2 (2).jpg資料5-1 (2).jpg
資料5-3 (2).jpg
ヌード界の話題で、本年最高はなんといってもこのお二人さん。
現在浅草のロック座で、歌ったり踊ったり大熱演中だが、誰がどう見たって生まれつきの女性と区別ができない。
「来年二月に最後の手術をして完全な女性になります。まだ恥しくて舞台に出るとあがっちゃうんです」と高橋京子さん(20)。まだ外見だけで、大事なところは女性になっていないのだそうだ。
そういう高橋さんにひきかえ吉本一二三さん(25)の方は外見も中味も完全な女性になりきっている。
「女になりたくてこの二月にある有名なお医者さんに手術してもらいました。さっそく男というものを実験してみましたが、アレはまったくイイですね。でも、男のときに、自分の子供を一人産ませておけばよかったと思います」とわかったようなわからないようなことをおっしゃってごきげんだ。

資料5-4.jpg まだバージンです 高橋京子さん 資料5-6.JPG
ヅラがよく似合う高橋京子さんの楽屋姿 もうお化粧もすっかりいたにつきました
資料5-5.jpg
女の悦びって凄い 吉本一二三さん
資料5-7.JPG
年増のお色気あふれる吉本一二三さんの楽屋姿 なかなかのグラマーぶりである
資料5-8.jpg
悩殺スタイルではりきる吉本一二三さん  うぶなオッパイを見せて高橋京子さんの舞台姿
資料5-9.JPG

【資料紹介④】「男が女になったとき」 [性社会史研究(性別越境・全般)]

2013年1月23日(水)

【資料紹介④】「男が女になったとき」(『アサヒ芸能』1961年12月17日号)

【資料①②③】と同じく吉本一二三と高橋京子による浅草ロック座の公演を紹介したグラビア記事。
この『アサヒ芸能』の記事が第一報の可能性がある。
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男が女になったとき
日本では第四号、第五号という性転換した女性がストリップの舞台に立っている。

第四号が吉本一二三(26)さん、第五号が高橋京子(23)さんで、二人とも生まれたとき完全な男性だった。
ところが、どういうわけか二人とも男に生まれたことを悲しんでいた。「女として生きて行きたい」というわけで物心つくころから女装ばかりして来た。吉本さんは十代のころ旅回りの一座で女形をやり、郷里の四国・徳島によって女性に変わることができることを知った。吉本さんが東京のある病院の門たたいたのが一昨年の四月、高橋さんは今年の二月ごろだった。

転性手術には約二年間を必要とするらしい。女性ホルモンを定期的に注射し体の内部組織を変えながら、時期をみて不必要部分を切断する、という方法である。吉本さんは今年の八月に女性としての整形をおわって、高橋さんは目下その工作中といったところである。

吉本さんは見事な乳房をもみせるストリップの日本舞踊を、高橋さんは流行歌をそれぞれ披露して、お客さんたちの拍手をあびている。

楽屋では、「本物の私たちよりよっぽど女らしいわ」とストリッパー連中が照れるほどのお色気ぶり。
(浅草・ロック座にて)
001 (2).jpg
あんまりオシトヤカなので他の踊り子たちが行儀見習をするくらい(左、吉本さん、右、高橋さん)
002 (2).jpg
ちょっと太くてハスキーな声で歌う高橋さん。
003 (2).jpg
唐人お吉でリッパな乳房やおヒップのあたりまで披露する吉本さん。
(撮影・中田俊之)

【資料紹介③】「性の転換をした人」 [性社会史研究(性別越境・全般)]

2013年1月23日(水)

【資料紹介③】「性の転換をした人」(掲載誌、正確な掲載年月日不詳)
【資料①】と同じく吉本一二三と高橋京子による浅草ロック座の公演を紹介したグラビア記事なので、1961年12月頃の掲載と推定される(山崎淳子さん寄贈資料)。
楽屋裏のシーンやフィナーレの様子がわかって興味深い。
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性の転換をした人
資料3-1.JPG
ロック座(東京・浅草)の舞台―七色のライトを浴びて踊っている女。その人こそ性転換した男なのである。
資料3-2.JPG
その人の名は吉本一二三さんと高橋京子さん。女の女であることを必要とする彼女たちは自分の体を女にするために六十万をかけた。
資料3-3.JPG
彼女たちの理想はと聞いたら本格的に日本舞踊を習いたいと真面目?に答えた。
資料3-4.JPG
不可能を可能にした彼女たちも体質が子供の時から女性的であったからだ。
資料3-5.JPG
いよいよ二人が舞台へあらわれる。司会者が二人の特異な体験を一通り語り終ると観客との一問一答が始まる。
資料3-6.JPG
その大筋を一寸紹介すれば
客―生まれた時は男のモノだけしかなかったのか?
吉本―そうなのです。
客―いま男性のシンボルは?
(司会者―賢明な質問)
吉本―ございません。
資料3-7.JPG
そこで記者が彼女たちに一問一答を試みると、
―性の喜こびはある?
(あります。どんな風に手術をしたかは私の知らないこと。位置はペニスがあった位置よりやや下った感じ…)
―ストリッパーを選んだ理由は?
(友達勧められて)
と云う具合。とも角、童貞から女に転化した人としては一種特有のエロチシズムを発散する。
資料3-8.JPG
フィナーレと共に彼女たちも仲間と何処かへ消えていった。

【資料紹介②】「(人物クローズアップ)舞台に賭ける性転換のストリッパー」  [性社会史研究(性別越境・全般)]

2013年1月22日(火)
【資料紹介】「(人物クローズアップ)舞台に賭ける性転換のストリッパー」
『週刊特集実話NEWS』32号(1961年12月28日号、日本文華社)
017 (2).jpg016 (2).jpg
舞台に賭ける性転換のストリッパー
20才まで完全な男性だったが、手術を三回、六年間をついやして女性に転換することに成功した話題のスト嬢!

私は子供が生めない
二十二日から浅草のストリップ劇場に吉本一二三(ヒフミ)さん(27)=本名吉本千億万、港区赤坂福好町一の二 ミハト荘内=というストリッパーが出演している(グラビア参照)
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2013-01-12
彼女は一日三回舞台にたつが初舞台とは思えないほどの熱演である。
薄桃色のドン張が上がると、客席から熱っぽい瞳が舞台に集中する。彼女の持ち場は「吉本一二三のベッド・シーン」と「唐人お吉」である。
ベッド・シーンでは舞台の中央に設けられたベッドを使ってなやましいまでの情景を展開する。また「唐人お吉」では中央に突き出たエプロンステージの端まで出て踊る。ライトは一つ、しかも彼女の顔や裸の腕、胸、腹、足と追いまわす。
確かに彼女はひとりの女性だった。乳房の大きなふくらみもからだつきも“女”だった。
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しかし、司会者は客席に向ってこういった。
「みなさん、吉本さんは六年間という長い年月をついやして、完全な男性から女性に性転換したひとであります。男か、女か、それはただいまみなさまがたが目で確かめたとおりです。今後ともよろしくご後援のほどを……」
吉本さんは司会者とともに深ぶかと頭を下げ、客席の質問にこう答えている。
「手術は三回いたしました。一回目は三週間入院、二、三回目は二週間入院しただけですみましたが、病院に通った日数まで計算するとのべ六年間で女性になりました。みなさんは性器はどうか、小用をするときはどうかとおっしゃいますが、あたしの場合、完全な女性とかわりありません。尿道もその中にありますし、すべて、女なみのものでございます」
“完全な男性”から“女性”に性転換した。欠かんは完全な女性が持っている卵巣だけがないだけ。
「ただ、あたしは子どもが生めないだけです」
という吉本さんは“女”になってとても倖わせだという。
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女形からゲイボーイ
吉本さんは“完全な男性”として昭和九年九月四日に徳島県小松島市に生れたのだった。兄や姉たちと一緒になって、戦争遊びや水遊びなどをやっていたという。
学校でも“腕白小僧”で有名だった。
「そのときなどは本当に男でしたわ。ケンカをやっても負けたことはなかったし、勝気なせいか勉強でも兄たちに負けなかった」
しかし同市立小学校から新制中学に入った十六才のときに(あたしは女ではないだろうか)と思ったという。
男でありながら男が好きになってしまった。しかも普通の友だち同士のようなものではなかった。
相手が体操の教師。彼には妻子があり、体操の先生を思わせるような活発さはなかった。いつもおだやかで、どこかしら貧弱なところがあった。
放課後も、吉本さんは用事にかこつけて会いにいったが、体操の先生はただの男としてしてか見てくれなかった。
学校から家に帰っても、男のやるものは嫌いで自から“女”のやるようなおとなしい仕事が好きになっていた。
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中学を卒業して神戸に職を求めてきた吉本さんは、一時、セメント瓦商の姉の嫁ぎ先に厄介になった。
しかし、有る日神戸市内を歩いていると、綾小路源三郎一座が公演している劇場の前を通りかかった。
(そうだ、ボクは女役者になろう)
思いつめた吉本さんは、綾小路さんを訪れて、熱心に使ってくれるよう頼んだ。
「とにかくもういちど家に帰って相談して両親が承知したらやとってあげよう、きょうはとにかく帰りなさい」
といわれて一応引きさがったものの、数日通いつづけて入団を許された。
その後は、郷里にも帰れなくなった。吉本さんは人生の再出発のつもりで「一二三」(ヒフミ)と改めて、大阪、東京、仙台と全国各地を巡った。
舞台では女装して日本舞踊を踊った。客のうけもよかった。
しかし、給料は安く、食事がまずくて、身体はやせるばかりとうとう一年と六カ月で劇団を出た吉本さんは、東京に出て、ゲイボーイになったのだった。
そこは小さな酒場だった。吉本さんのほかに、六人の男たちが女装してお客をもてなしていたが吉本さんは酒はのめなかった。
しかし、吉本さんは、ゲイボーイになって、初めて常連のお客さんと恋をした。
二人はその後同棲まで発展したが、その男は勤めに出たまま幾日待っても帰ってはこなかった。
「あたしはうらぎられたんだわ」
と気付いたときには一カ月もすぎていた。男だからだろうか、将来を思って去って行ったのだろうか、心はみだれるのだった。
女になろうと性転換をする覚悟をきめたのはそれからまもなくだった。

女として踊りを続けたい
“完全な男性”から“女性”に―。大勢の医師をたずねては性転換できるかどうか診察してもらった。ある石からは、「もし、あなたが女性になったとしたら、わが国で四番目の人です」といわれた。はじめの人は仮性半陰陽の人出、二、三番目の人は男の人だったという。
この三番目の人はすべて性転換に成功して、何不自由なく生活していることを教えられた。
吉本さんの手術は、まず男性の象徴である睾丸を除去することからはじまった。
約一カ月間入院、その間、女性ホルモンを徐々に注射していった。すると、いままで小さな米粒ぐらいの乳房はだんだんと大きくなり、男ではみられない脂肪がからだのいたるところにつきはじめた。
そして、二回、三回と入院するにしたがって、女性としての器官も整形されて、ちょっと見ては女としか判らなかった。
「もう、すっかり女になりました」
と医師からいわれたのは二か月前の九月初旬だった。実に六ヵ年という長い年月を要した。
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しかし、吉本さんとて生きるためには働かねばならなかった。
第一回目の手術が終わると、キャバレーの踊り子になって踊っていた。
北は札幌市にある「白鳥」神戸の「紅馬車」大阪の「白蘭」「銀パリ」などでは有名だが、浅草のストリップ劇場「ロック座」に出演しようとという気になったのは、自分が女になったことを、世の中の人々に確かめてもらうためだった。
支配人の桑野さんは、
「彼女の美しさは、新派でいえば花柳章太郎の持つ美しさですよ。色っぽくて、どうもジレッたくなるようなものを持っているんですね」
という。
「だけどあたしが女として成長していくのはこれからです。結婚もよいでしょう。しかし、あたしは当分の間は結婚ということは考えたくありません。女としての誇りを身につけ、生きるための闘かいがあるんです。恐らくこのような、舞台には、二度とたつようなことはないと思います。私の魅力はなんといってもキャバレーです。働けるだけはここで踊りつづけたいと思っています」
と陽気に笑う彼女である。

【資料紹介①】「(話題スナップ)おとこからおんなになった性転換の妖艶ストリッパー」 [性社会史研究(性別越境・全般)]

2013年1月12日(土)
「(話題スナップ)おとこからおんなになった性転換の妖艶ストリッパー」
 『週刊特集実話NEWS』32号(1961年12月28日号、日本文華社)
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浅草のロック座でいま初舞台をふんでいる“性転換の女性“吉本一二三(写真右25才)と高橋京子(写真左24才)二人が、共に妖しげなお色気をふりまき人気を呼んでいる。
彼女らは共に大阪出身で、三年がかりでやっと憧れの女性に仲間入り。
その喜びを、先に封切りされた映画「世界の夜」に出演していたアメリカの性転換女性コクシメールのように芸能界の王座に君臨したいと語り、もっぱら歌と踊を勉強中とか。
(*)Coccinelle(1931~2006年)はフランス人。

乳房もふっくらと芸者姿でその艶やかなお色気をかもし出す楽屋うらでの吉本一二三さん
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吉本一二三…大阪出身。16才のとき綾小路元三郎一座に入座。5年前から急に乳がふくれ、医師の診断により女性となった。
高橋京子…大阪出身。沢村元之丞一座で女形を演じているうちに女形になりたくて手術したそうな。
(**)「女形になりたくて」は「女性になりたくて」の誤植と思われる。

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“わたしの体をよく見て下さい”と女性になった喜びをお客にご披露する高橋京子さん

2005年06月10日 「性転向」と「性転換」 [性社会史研究(性別越境・全般)]

2005年06月10日 「性転向」と「性転換」

6月10日(金) 一日中、雨 梅雨入り

11時半、起床。
朝ご飯(トースト1枚とグレープフルーツ半個)の後、講義の準備。

午後、短大の講義。

17時半、仕事場に戻る。
途中、東急ストアで、仕事場用のダイエット食品を購入。
お昼抜きはさすがに辛いので、さっそくコンニャク麺(磯風味)を食べる。

メールチェックとお返事書き。
21時までパソコンでいろいろ作業。

22時、帰宅。
夕食は、お刺し身(ひらめ、あじ)と、しめじのお吸い物。
モロヘイヤの生姜醤油あえ。

お風呂に入った後、1時頃から、2時間ほど調べ物。
昨年12月に講談社現代新書から刊行された井上章一&関西性欲研究会『性の用語集』の第2集企画の進行が決定したので、その準備。
担当項目の「性転換」の使用例を手持ちの資料から抽出する作業。

1930年代から1950年代前半くらいまでは、「性の転向」と「性の転換」が両方用いられていた。
それが、1950年代後半から1960年代にかけて「性転換」という言葉で固まってくるように思われる。
なぜだろう?
「転向」には、思想的な「転向」のニュアンスが強すぎるからだろうか?

就寝3時半。

2005年3月1日 東京のニューハーフ・ヘルス(1999年) [性社会史研究(性別越境・全般)]

2005年3月1日 東京のニューハーフ・ヘルス(1999年)

3月1日(火) 曇り

10時半、起床。

朝ご飯の後、久しぶりに「江戸〜東京における男色文化の地域性」についての資料メモ作り。
この1週間ほど校正騒ぎで、まともな研究作業ができなかったので、なんだか楽しい。

いろいろ調べていて、1999年段階の東京都内で、いわゆる「ニューハーフ・ヘルス」でセックスワーク(フーゾク産業)に従事しているニューハーフは、だいたい90人前後と推定できることがわかった。

これには、外国系のニューハーフのストリートガール(街娼)は含まれていないが、意外と少ない印象。
女性のセックスワーク従事者の推定数はわからないが、おそらくその100分の1くらいではないだろうか?

地域的には、台東区(鶯谷)を除くと、豊島区・新宿区・中野区・渋谷区・目黒区という具合に、東京区部の西側に集中している。

こんなことを調べて、何になると言われると、困るのだけど、都市の風俗という点では、やはりなにか意味があると思う。

2009年07月02日 「エム・バタフライ」モデル、逝く [性社会史研究(性別越境・全般)]

2009年07月02日 「エム・バタフライ」モデル、逝く

7月2日(木)
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「エム・バタフライ」モデル死去 女性に扮し機密入手

【パリ=飯竹恒一】
女性になりすましてフランスの外交官に接近し、機密を入手したスパイ罪で1986年に禁固6年の有罪判決を受けた中国人京劇俳優・時佩璞氏が6月30日、パリの自宅で死亡したとAFP通信が伝えた。70歳だった。

北京の仏大使館勤務だった外交官ベルナール・ブルシコ氏と64年に出会った。女性と思わせて愛人関係に持ち込み、翌年に子供が生まれたと信じ込ませるほどだった。ほれた弱みにつけ込み、外交機密文書を流させ続けた。

83年にパリでブルシコ氏とともに逮捕されてようやく男性だったと悟られたという。有罪判決後の87年、当時のミッテラン大統領によって恩赦された。

舞台劇やデビッド・クローネンバーグ監督による映画「エム・バタフライ」(93年)の題材となったことでも知られる。

『朝日新聞』2009年7月2日11時2分
http://www.asahi.com/international/update/0702/TKY200907020097.html
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「最高の女装スパイ」と言われた人が、世を去りました。
フランス外交官に、女性として接近し、性的関係を持ちながら、20年近く男性であることを悟らせなかったテクニックは、まさに驚異です。

私は、彼が身に着けていたすぐれた女装&性的テクニックは、中国の「相公(Xiang-Gong シャンコン)」のそれだと睨んでいます。

そうだとすると、中華民国成立(1911年)とともに禁止されたはずの「相公」の伝統が、中華人民共和国(1949~)でも、少なくとも文化大革命期(1966~)までは、生き残っていたことになり、その点でも興味深いものがあります。

ちなみに「相公」は、中国の清代に盛んだった職業的女装者で、女装して酒席に侍り、芸能を行い、性的サービスもおこなうという点で、日本の江戸時代の「陰間」とよく似ています。

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