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(解説) 「もう一人の私のこと -「富貴クラブ」の女装者、小池美喜の手記-」</ [性社会史研究(女装者の手記)]

(解説)「もう一人の私のこと -「富貴クラブ」の女装者、小池美喜の手記-」

三橋 順子

1 「手記」を託された経緯
 「富貴クラブのことを調べてるそうですね」
 仕事の合間に立ち寄った昼は喫茶店営業をしている新宿2丁目の女装系の店「青い鳥」で、隣席の熟年男性から声をかけられたのは、2000年の秋の午後だったと思う。
 私は、少し前に『ニューハーフ倶楽部』(三和出版)に連載している女装歴史エッセーに、1960~70年代に活動した女装秘密結社「富貴クラブ」のことを調べて書いていた(註1)。その男性は、それを読んでくださったらしい。
 「私、実は『富貴クラブ』にいたんですよ」
 そう語り始めたその男性Hさんは、「富貴クラブ」の元会員であるだけでなく、現在も2人のお仲間と、「富貴クラブ」の最後の拠点であった中野にアパートを借りて、女装活動を続けている方だった。
 実は「『富貴クラブ』の残党がいる」という話は、かすかな噂として、調査の過程で耳に入っていた。しかし、まさかこんな形で、そのご当人と会えるとは思ってもいなかった。私はとりあえず必要な情報をメモして、後日の詳しいインタビューをお願いした。Hさんは「そういうことなら私より詳しい人がいるから・・・」と、調査への便宜をはかることを約束してくださった。

 「富貴クラブ」は、1960~70年代の日本のアマチュア女装世界をリードした女装秘密結社である。その存在と活動は、性風俗総合雑誌『風俗奇譚』誌上にほぼ毎号記事が載っているほか、時たま一般の週刊誌にも紹介されていたが、秘密性の強い会の性格を反映して、会の詳しい内情はほとんどわかっていなかった。
 私が主催していた新宿の女装者の親睦グループ「クラブ フェイクレディ(CFL)」のメンバーにも、「富貴クラブ」の会員だった人が数人いたが、その件に関しては、皆、一様に口が重かった。1970年代に「若手3人娘」の一人として有力会員だった渡辺美樹姐さん(「富貴」在籍当時の名は青山美樹)も、「順ちゃん、そのことはいずれ時期が来たら話すから」と肝心なことは語ってくれなかった。

  年が開けた2001年3月2日、新宿2丁目の女装スナック「Duo」の喫茶部(昼間営業)でHさんに再会した。しばらくお話をうかがった後、Hさんが女装活動のために、お仲間と借りている中野区内アパートに連れていっていただいた。ダイニングキッチンと6畳の和室という構成のお部屋には、箪笥や収納ケースが並び、Hさんの箪笥の引き出しには、着物と長襦袢がびっしり詰まっていた。
 その時、Hさんから「ここを借りてる仲間の人から三橋さんに渡すよう頼まれました」と2冊のノートを手渡された。表紙を開けると、「『も一人の私』のこと(成子素人)」と題された手記だった。縦罫15行約50頁の大学ノートに万年筆で流麗な書体でびっしり記されている。もう1冊も同様で「続『も一人の私』のこと(成子素人)」と題された続編だった。
 Hさんのお話から、この手記の著者「成子素人」氏が、『風俗奇譚』などに写真が掲載されていて、私も名前を存じ上げていた小池美喜さんであることがわかった。私は、ノートの借覧許可をいただくとともに、適当な時期に小池さんに直接お会いしたい旨をお伝えした。
 手記は、文中に「20世紀の終わる年」とあり、また私に託された経緯からして2000年の秋から冬に執筆されたものと推測される。内容的にも期待に違わないもので、今までデータが不十分だった「富貴クラブ」の「部屋」の変遷とその時期がほぼ正確に判明しただけでなく、謎に包まれていた「富貴クラブ」のセクシュアリティの有り様をリアルに伝えるものだった。また、確定できていなかった「富貴クラブ」の西塔哲会長の没年や会の解散時期についても有力な情報を得ることができた。と同時に、小池美喜さんという一人の女装者の半生記としても、たいへん興味深いものだった。
小池美喜(SMF197504) 2.jpg
↑ 芸者の「出の衣装」姿の小池美喜さん(『SMファンタジア1975年4月号)

2 小池さんに会う
 秋も深まりつつあった2001年10月20日、私はHさんとともに再び中野のアパートを訪れ、小池美喜さんにお目にかかった。小池さんは、黒いワンピースの女装姿で迎えてくださった。私は、小池さんに「手記」の研究資料としての活用をお願いして許可をいただき、同時にいくつかのことを質問した。
 しかし、「そこに書いてある以上のことはあまり覚えていない」と言われて、ほとんど新しい情報は得られなかった。出身地とか、ご職業とか、正確な年齢など、プライベートなデータもお話いただけなかった。ただ、お話の内容から、小池さんの実年齢が70歳か少し越えている(70~72歳)ということがわかった(したがって、生年は、昭和4~6年、1929~31年頃と推定される)。
 「手記」に記された以上の話を提供できない代わりにということだったのだろうか、箱に入った大量の写真を見せてくださった。ざっと見た感じでは300枚くらいはあったと思う。モノクロ写真が7割、カラー写真が3割ほどで、加茂こずえさんや小野悠子さんなど1960年代の「富貴クラブ」のトップスターの写真も混じっていて、写真の状況や被写体になっている人からして、1960年代中頃から1970年代初頭のものと推測した。小池さんとHさんのお話では、「富貴クラブ」解散時に廃棄された物品の中から救い出し保管したものらしい。
 「富貴クラブ」の写真については、ある元会員から「解散の時に大量のネガとプリントを焼却処分した」という話を聞いていたので、これだけ大量に残っていたとは予想外だった。神楽坂の「風俗文献資料館」に収められている西塔会長の所持写真(の一部)とともに、「富貴クラブ」の実相を今に伝える貴重な写真資料だと思う(後にHさんから譲渡され、現在は三橋が保管)。
 小池さんは、その写真の中から、ご自身が写っているもの6枚(モノクロ4枚、カラー2枚)を私にくださった。
富貴クラブ(小池美喜・鴨こずゑ・石渡奈美、1967年8月以降)2.jpg
↑ 左から小池美喜さん、鴨こずえさん、石渡奈美さん(1967年8月以降)
富貴クラブ1(2).jpg
↑ 富貴クラブの「会員の部屋」で。中央後方が小池美喜さん。

 後にHさんにうかがった話では、小池さんは、私がお目にかかった半年後に持病の悪化と体力の低下を理由に、アパートの仲間に別れを告げて、郷里に引き籠もられたという。

3  テキスト化にあたって
 「手記」は、三橋がリライトする形で活字化した。その際、あまりに長すぎる文章は分割し、首尾が乱れている部分や漢字の使用法を手直して読みやすくした。もちろん内容的な改変は行わず、文体や表現も、極力、原文を生かすようにつとめた。その上で、適宜、分割して小見出しを付した。また、題名は、原題の「『も一人の私』のこと」から文中の表現を採用して「もう一人の私のこと」に改め、さらに「-「富貴クラブ」の女装者、小池美喜の手記-」という副題を加えた。

 先に述べたような事情から、もう小池さんにお会いすることはできないと思う。こうして活字化した成果を、お手元に届けて見ていただくことも叶わないだろう。そのことが、とても残念である。
 小池さんが40年に近い長い女装活動の最後に、この「手記」を記されて、後進の私に託してくださったことに心から感謝したい。「あなたなら、私の思いを解ってくれると思うから」とおっしゃられたご好意に、こうした形でお応えすることになったことを、ご報告申し上げる。
 また、仲介の労をとってくださったHさんにも、この場を借りて御礼を申し上げる。

(註1) 三橋順子 「日本女装百話4 『富貴クラブ』の実像を探る糸口を発見」(『ニューハーフ倶楽部』27号 2000年1月 三和出版)
http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/junkoworld3_3_04.htm
三橋順子 「日本女装百話5 『富貴クラブ』の実に先進的だった運営システム」(『同』28号 2000年5月 三和出版)。
http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/junkoworld3_3_05.htm

「もう一人の私のこと -女装者、小池美喜の手記-」 目 次
(前編)
【1】 はじめに
【2】 少年時代の憶い出
【3】 青年時代
【4】 初めての女装体験
【5】 「富貴クラブ」入会
【6】 成子坂下の「部屋」で
【7】 番衆町の「部屋」で
【8】 濃い化粧の女
【9】 会員同士のセックスを見る
【10】 諏訪町の「部屋」で
【11】 「遊び」への誘い
【12】 「女役」の手ほどき
【13】 女役として出発
【14】 芸者島田の鬘を買う
【15】 「部屋」での過ごし方
【16】 西塔会長のこと
【17】 マンションの屋上で
【18】 「部屋」の移転
【19】 前編のあとがき

(後編)
【20】 後編のまえがき
【21】 中野の「部屋」
【22】 芸者の衣裳を揃える
【23】 洋装の支度
【24】 新しい「部屋」のお披露目
【25】 会の運営
【26】 8ミリムービーと写真撮影
【27】 ビデオ撮影
【28】 「遊び」を撮る
【29】 鬘の手入れ
【30】 『風俗奇譚』の撮影
【31】 関西からの客
【32】 一泊温泉旅行
【33】 名古屋の男性専用ホテル
【34】 大阪「唄子」で遊ぶ
【35】 会長の逝去と会の解散
【36】 アパートを借りる
【37】 「もう一人の私」になること
【38】 これから
【39】 あとがき

成子 素人「もう一人の私 のこと」(後編) [性社会史研究(女装者の手記)]

も う 一 人 の 私 の こ と (後編)

   -「富貴クラブ」の女装者、小池美喜の手記-
                    成 子 素 人

【20】 後編のまえがき

  虚 構 の 約 束
 心も躰も別人格の
 もう一人の私に生まれ変わると
 恥知らずの女を演じ始める。
 …夜の灯り 幻想の空間…
 フェチシズムとトランスベスチシズム 
 華やかな彩り 着飾った女すがたへのナルシシズム。
 …燃えあがる肉体の慾情…
 むせるような化粧の匂いと
 妖しい美に魅せられた疑似異性愛を
 好む男に抱かれるだけの存在。
 虚構の約束の中で
 女になれた錯覚に酔い痴れ
 燃え果てる束の間のいのち。
 …非日常のこの世界…

 こんな詩を書いていた程、私は女装した自分自身に陶酔し、ますます濃い念入りな化粧をし、描いた眉一つで違った感じになるのを試しながら、「お立ち」をしてくれる者の気を引き、女装の「オネエ(女役」の愉悦に悶えるのが病みつきになっていた。

【21】 中野の「部屋」
 中野区中央の大久保通りに面したマンションの一室を借りたのは、確か昭和45年(1970)であったように憶えている。何階建だったか憶えていないが、相当の戸数の大きな建物でエレベーターもあった。6階で降り廊下になっている北側を東へ行った突き当たりの部屋で、入り口に「堀江茂」の表札が出ていた。ブザーを押して待つと、オリエさんが会員であるのを確かめて入室させてくれた。
 玄関を入るとリビングキッチンで、左手に流しがあって、トイレとバスルームは廊下からの延長線にある間取りで、この通路部分を仕切る形でカーテン地のような布が掛けられ、リビングは見えないようにしてあった。
 その仕切りの向こう側がリビングで、9畳分くらいあり、ソファーと低いテーブルを置いて、椅子が幾つか配置され、遊びのきっかけになるお喋りの空間となっていた。誰かがテレビを持って来たり、電話も入り便利になっていた。
 リビングからはそれぞれの和室に入れるような間取りになっていた。右側の廊下寄りの6畳は楽屋になっており、化粧台は姿見にもなる大鏡と椅子付きの三面鏡台があって、一度に二人の化粧が出来たし、押し入れも3尺と6尺のがあり、会員の女装用品を預かれるようになっていた。
 リビングを通り抜けた先の右が8畳で、南側にベランダがついていて明るく、左の6畳は西と北に窓があったが、この部屋はいつも布団が敷いてあって、話の合った者同士の閨ともなり、心ゆくまで悦楽の時を持てるようにしてあった。
 新しい「女装の部屋」は、62平方余り(19坪)の今までの所(早稲田諏訪町のマンション)と比べれば、たっぷりした広さであった。ここを借用するに当たり、私は必要費用の分担をしたので、特別扱いをしてくれたのであろう。細々とした女装用品を入れる2尺幅の引出しだけの小箪笥を買う仲間へ加えられ、楽屋にいくつか並ぶようにもなった。

【22】 芸者の衣裳を揃える
 ここに移る前頃から、網目の芸者島田も持てたことだから、出の衣裳という程でもないが、裾引きが欲しくなった。浅草の踊り衣裳の店なら安く買えるという話だったので行ってみた。仲見世から観音様の境内に入る辺りに店を出している衣裳屋の1軒を、ひやかしの心算で覗いたところ、声をかけてきた店の小母さんが、いやに面白い人で、つい色々と話をしてしまった。私の目が何を見ているかで見抜かれてしまったのかもしれない。次から次へと派手なものを見せられ、緋の長襦袢を作ることになり寸法を取られてしまったので、ついでに裾引きを拵えることになった。そこへは、三度か四度くらい仕立に寄ったかと思う。
 前にオリエさんに買ってもらったのは名古屋帯で、裾引きの衣裳には合わないと思っていた。あるデパートの呉服品の安売り会場でちょっとした袋帯を目にし、確か3万円代であったので買ってしまった。
 「緋の一丈」という芸者が帯の下に締めるものは、ゲイバーで教えてもらい、仲見世の呉服屋の店先にぶら下げてあったのを買った。肌襦袢なども襟を大きく抜いて着付けるには、普通のでは駄目なので、繰越4寸5分のを踊り衣裳の小物店で何枚か手に入れた。
 和装用の小物も、買い易そうな店があると、足が店の中に入ってしまい、結構、数は増えてしまった。
 和装をするには、腰巻、肌襦袢、腰紐、襟芯を入れた長襦袢、「緋の一丈」の上から帯を締め、帯枕、扱帯、そして帯〆と幾重にも体を締めつけてゆく。濃くした襟化粧と艶麗に拵えた顔、濡れたような黒髪の芸者島田、姿見に写して品をつくったときのナルシシズムは格別なものだった。形をつくっている間にすでに疼いている体は、「キレイよ」なんて云われるだけで、勃起が始まってしまうくらいだった。

【23】 洋装の支度
 和装は暑い時は無理で、専ら正月を挟んだ冬場だけになる。春から秋にかけては着付なんかの世話をかけることもなく、洋装の、娼婦スタイルの遊びの季節となる。化粧品もそれなりに今様の物になって、女装を始めた頃はドーランを使っていたのが、ファンデーションになり、パウダーも一色ではなく、アイライナーも黒の他に茶色で描けるのにしたり、眉を描く筆、紅筆、紅を掃くブラシ、アイシャドーなど色々で、化粧ケースは一杯になっていた。
 アクセサリーも、ネックレスやイヤリングなど入りきれないくらいで、ハンドバッグにはコティのコンパクトとルージュを入れてあった。この部屋に行く日を決めると、マニュキュアをするために爪を切らずに長くしておいた。ウィッグもウェーブのきいたロングを茶毛、ブロンド、赤毛と買いそろえた。他の会員に「欲しい」と云われて譲ってやったこともある。付け睫毛も黒い毛以外のものまで買っておいた。
 オリエさんの知り合いで、洋裁店をやっているという人が来た時には、黒のドレスを注文し、仮縫いもしてもらった。ハイヒールは銀座のアメリカ屋で、10センチのスパイク・ヒールの25センチのサイズを見付けた。そんな外出してもいいような姿で、リビングの床を歩いてみたりしたものだ。

【24】 新しい「部屋」のお披露目
 新しい「部屋」へ移れたので、そのお披露目をすることになった。集まりの日は少し早目に行ったのだが、風呂の順番待ちをする程、次々に会員たちがやってくる。その顔触れは、成子坂下や厚生年金会館当時の会員の他、今まで会った事もない人も多かった。若い子が増えていることから、会もますます隆盛になって来たなと思った。
 暑くはない時だったので、私は白塗りにすることにした。風呂場で胸の下辺から足の裏まで、白粉を塗り込んでおいて、紫の羽二重で目吊りをし、眉をつぶし、白粉下を顔と首の辺りへ刷り込む。髭の剃り跡と眉は、ドーランで地肌に近い色合にした上に、ファンデーションとパウダーで同じ肌色に仕上げてゆくと、顔の拵えの下地ができる。
 溶いた練白粉を刷毛で塗り、牡丹刷毛で顎の辺りまで肌に馴染ませて、白のパウダーで圧えてゆくと、眉も唇も真白の性別不明の顔が鏡に写っている。
 襟から背へ、首筋から肩、胸へかけてと、白粉下を刷り込む、白粉を濃くする所の下地を作る。そして、白粉刷毛の長い柄の方で、背中の方から塗ってゆく。風呂場で塗ったのと重なる様にして、胸も塗る。手が届きにくい背中などの白粉を肌に馴染ませる作業は、頼んでみると、白塗は面白いからと言って、誰かしら手伝ってくれる。
 腕も手首の辺りまで白くしておいてから、顔の拵えにかかる。白のカンバスへ女の顔を描き込んでゆくと云った方がいいかも知れない。頬に紅を掃き、目張りを入れ、女眉を描き、唇にルージュを引いていくと、女の顔が出来る。長い付け睫をつけ、鬢を描き足してから、網目の芸者島田をかぶる。女の顔が完成するまで、化粧台の前に座っている時間は、私が一番長かったと思う。
 諸肌脱ぎの浴衣のまま肌襦袢に手を通し、緋の長襦袢を羽織ってから、浴衣の腰紐を解いて足元に落とす。赤の腰巻きを締めたら、長襦袢の裾を決めて腰紐を締め、襟を決めながらおはしょりをして紐をする。オリエさんの仲間だったのかゲイボーイをしているらしい人が来ていて、着付をしてくれた。それも、オリエさんが口を利いてくれたからだったが、裾引きを着せてくれた。腰紐を締め、襟を直してくれて、胸の膨らみも作ってくれた。紐をされると、おはしょりをした上から「緋の一丈」を巻いて、袋帯で「柳」に締めてくれた。 白足袋を履いて、芸者の座敷姿が出来上がった。姿見に艶麗な女姿を写して、暫くは我ながらうっとりしていた。
 新しい部屋になった「会」の発展を願う集いは、会長を中心にしての宴だった。私が化粧に夢中になっている間、オードブルの買付や、盛付、配膳など、会員の中の二、三人が骨を折ってくれたらしい。何処にでも縁の下の働きをしてくれる人がいるもので、ちょっとばかり申し訳ないと心中思ったものだ。
 八疊の間だけでは、会員が座りきれず、リビングのテーブルの方も使っていたようだったが、私は奥の方に座ったまま動けなくなっていた。ビールの乾杯から始まった宴は、酒、もワインもあったように思うが、女装者の多くはアルコールに弱いようで酒量はあまり進まなかった。酒呑みの部類に入る者は女装などしないのかもしれない。それでも会長の懐古談や同好の士との遠慮の無いおしゃべりで、座は賑やかに盛り上がり、誰か隠し芸でもということになった。当時、新宿の飲み屋街に女装の店を開いた頃だったと憶うが、加茂梢さんが踊りを披露した。歌を唄った人もいた。アルコールの件もそうだが、歌の上手な人も少なく、二、三人が唄ったもののお義理の拍手だった。その内に席から消えてゆく者もあった。隣の部屋で楽しみ合っていたのかもしれない。
 誰と誰が参加していたかということになると、顔は覚えているが、名前になると、せいぜい10人くらいの人しか覚えていない。と云うよりも、初めから名乗り合ってもいないし、私の方も覚える気が余りなかったせいもある。

【25】 会の運営
 こうして、中野に移った新しい「部屋」の雰囲気は、今までから思うと明るくなった。特に若い学生などは、下宿へ帰って一人でいるよりも、ここへ寄っていった方が愉しいらしく、いつ行っても誰かしらが来ていた。また会員には、女装などしたこともない中年の紳士もいて、中には若い子のパトロンでもあったのか、特定の子を目的として来て、あまり濃い化粧をしなくてもいいナチュラルな感じの女姿になる若い子を、連れ出して行くところを見たこともあった。
 また、以前に女装をしたこともあったが、今は「オネエ」を抱く方になって、フェラチオをし合ってから、本番のアナルセックスをして帰る者や、地方の人で上京してきた時には「部屋」を宿にして、女装をして愉しむ人もいた。会員として登録されている者は、100人近くになっていたようだ。
 この部屋の家賃、水道光熱費、その他諸々の経費を負担するのに、会員は会費として毎月2000円を納めていたと憶う。会費は、その後、5000円にしたような気がする。それとは別に会の部屋に来た時には、風呂も使うし、その都度2000円を払った。押入れに預ける女装用品が多い者は、預け賃も払った。半年以上滞納した場合は、預かり品を処分することになっていたが、実際に行われていたかどうか、わからない。
 女装しない会員や若い学生たちの負担は、たぶん何分かの考慮がなされていたのであろうが、はっきり聞いたこともないのでわからない。
 ここへは会長もよく来ていた。私が行った日にはたいてい来ていて、和装にこしらえた私が会長に寄り添っている写真も残っている。しかし、一度なりとも遊んでもらったことはない。会長が特に可愛がっている若い学生がいたなんてことは、後になって知った。よく若い子を何人か前にして、「この字は何んて読むか」とか、今の学生たちが漢字に疎いことから、教育的な話をしていたのが印象に残っている。

【26】 8ミリムービーと写真撮影
 私は若い時からカメラを扱っていたし、8ミリムービーもモノクロのフィルムがWの時から使っていて、子供が生まれて幼い頃の記録も残してある。シングルエイトの16駒になってからは300とか400フィートの長尺物に編集してあった。
 私自身が出演している「遊び」のシーンを8ミリムービーで撮ったのが一本だけある。若い学生の子がカメラマンをしてくれたのだが、馴れないカメラを廻してもらわねばならず、カメラの位置やアングル、ショットを指示しながらのセックスでは、こちらが気が入らない。それなりに撮影してくれたのだが、一回限りで止めてしまった。
 その代わり、スチール写真なら一人でもセルフタイマーもあるし、女装してからの立姿や座り姿など、鏡に写してポーズをつけて撮ればいいので、誰かにシャッターを押してもらうこともできる。
 中野の「部屋」になってからは、会員の数も多くなったせいか、いつ行っても誰かしら来ているし、「遊び」になることも多くなった。艶麗な濃い化粧をした女姿が着崩れていく様とか、腿の奥まで塗り込めた白粉の肌も露わに淫らなセックスに歓喜する表情とか、洋装なら娼婦スタイルになってフェラチオをし合う様、屹立したものを咥えるルージュの唇、そしてインサートされている様子などをスチール写真に収めた。
 ずいぶん色々な会員と遊んだものだと思うが、顔は憶い出すものの名前の方は、何という人だったか、今でも知らない方が多い。
 カラーフィルムは、メーカーへ現像とプリントを頼まなければならなかったが、女装をしてのセックスシーンがあるので返すことはできないと云われたことがあった。プリント一枚だけで、他人に見せるものではなく、猥褻図画とするのは考え過ぎだろう。すぐに送り返すよう申し入れたところ、「今回に限り」と送ってよこした。やはりまずいと思い、以後はポラロイドカメラにして、随分色々なシーンを撮ったものだ。

【27】 ビデオ撮影
 その後、昭和50年代になってビデオカメラが普及しだし、最初はベータを買って、子供を中心にした家庭での日常的なことや地域の行事、旅行などを撮っていた。だが、それだけでなく、女装して化粧するところや「遊び」の様子を撮っては密かに編集していた。会員の部屋に誰かが持ち込んだビデオデッキはVHSだったので、女装してからビデオを楽しむにはベータのテープでは駄目で、VHSにダビングすると画質が落ちてしまうので、結局、カメラをVHSに買い替えた。
 その頃のビデオカメラは、カメラとテープをセットする器具が別になっていて、重量も相当なものがあった。戸外で風景や人々の動きを撮る時には、カメラを肩に乗せていた。会員の部屋での撮影は、いつも三脚に乗せていたので、その点は楽だったが、自分が被写体の場合は、誰かに操作してもらわなければならない。こうした場合には、オリエさんがよくやってくれた。どうせ編集するので、好きなように撮ってもらえばいいのだが、ロングからアップにしたり、けっこううまく撮ってくれた。
 オリエさんの手がない時は、回しっぱなしで撮った。まず、私が次第に燃え上がり、悶え、喘ぎ、よがり言を口走るまでを録音を入れてロングで撮る。そこで「遊び」を中断してカメラのショットを替え、「遊び」の始まりから昂まっていく表情のアップを撮る。このアップショットを編集の時にロングショットの間に組み込むのである。絶頂のシーンでは、アナルにインサートされてよがる私、私の屹立したものをしごきながら腰をつかう「お立ち」のロングショットの間に、「お立ち」の硬直したものがアナルを抜き差しする状況や、私が叫び声とともにザーメンを噴き上げるシーンのアップを入れるといった具合に、上手に編集すれば、結構、観られるものに仕上げることができた。
 ビデオ時代になって、スチール写真はほとんど撮らなくなり、会員の部屋に行くときは、必ずビデオ機材を持っていった。化粧ができあがったあたりから、鏡の中のカメラレンズを色っぽく見つめ、化粧直しをしたり、白塗りの場合は背まで抜いた襟化粧にうっとりする様子を撮影する。付け睫毛をした眼張りの瞳が、「お立ち」を誘う時の気持ちで流し目をする様などを鏡に写すナルシズムの愉しみもアップで撮っておいたりした。

【28】 「遊び」を撮る
 この会そのものが「女装の部屋」だけに、「遊び」をするとなると、多くが女装者同士の「レズ遊び」になってしまう。しかし、女装者を抱く心算だけで会員になる男もいて、ある時、オリエさんの取り持ちで、そうした男性会員に引き合わされ「遊び」をすることになった。白塗りの芸者姿をしていた私を見て、その人が「日本髪でない方がいい」と言うので、今更化粧直しもできず、着物を脱いで洋装にし、ロングのウィッグにした。この姿で化粧が白塗りというのはどうかと思ったが、相手はそれが気に入ったらしく「遊び」に入ることになった。
 オリエさんがビデオを撮ってくれることになり、抱かれて感じて来たところから始めて、私がフェラチオをしてやるシーン、そしてアナルへのインサートシーンを延々と撮られた。女の表情を浮かべて悶える顔のアップもうまく撮ってもらった。その人とは、その後、何回か「遊び」をするようになった。
 また、久しぶりに一緒になった女装会員の人が、白塗りをしたいと言うので、私の「地がつら」を貸してやり、二人で日本髪の女姿で「遊び」をした。交互に相手のものを咥えこんで、黒髪を揺する様や、口淫される快感にのけぞる表情などをオリエさんにアップで撮影してもらう。オリエさんのカメラマンぶりも慣れてきて、二人が更なる悦楽を求めて、帯を解き、着物を脱いで、緋の長襦袢だけになり、私が女の役をする「遊び」の様子をじっくり撮ってくれる。
 肩からずり落ちそうな襟から、一際濃く塗り込めた襟白粉の雪の肌も露にして抱かれる年増女が、裾前から白粉を塗った膝をこぼす。相方に探られるままに、緋の色を捲られた内腿の白粉の奥で疼きの昂まるものをつかませ、妖艶な流し目を送る。トランスベスティシズムとナルシシズムの快感が更なる硬直を呼ぶ。まさに病い膏肓であった。
 暑くなると、白塗りでは汗だくになるので、それを避けるために洋装になったが、本来は白塗りがなにより好きで、「遊び」は二の次であったろう。
 ビデオ撮影は白塗りの時だけではない。ロングヘアーに濃いアイシャドー、長い付け睫毛、妖艶な女眉、唇も大きめにルージュで描き、ある時は黒、ある時は赤のランジェリー、同色のブラジャー、ガーターベルト、パンティに、ストッキング、ハイヒールという娼婦スタイルの私がオネエ役を演じる様も撮影した。フェラチオする横顔、アナルへのインサート、屹立する私のものをしごく「お立ち」の指の動き、次第に昂まっていく快感に喘ぐ声、よがりだす表情のアップが続き、やがて尿道を駆け抜けてゆく灼けるような快感のほと走りが噴き上がり、乳白色のザーメンが撒き散らされるところまで、幾つかのビデオテープに今でも残っている。
 ロングのウィッグでの娼婦スタイルは、身軽なだけに絡み合う時に、髪の乱れを気にすることなく、その時に応じて好みのラーゲ(体位)を取れる利点があった。娼婦に成り切って、ハイヒールを履いたままフェラチオし合い、アナルへインサートされる猥らなセックスシーンを撮影し、編集してダビングテープにおとしておく。後で再生して、悦楽の表情のアップなどを観察し、次に顔を拵える時の参考にしたものだ。
 妙なもので、女性のメンスと同じように、最低月1回は女装をして「遊び」をしないと落ち着かなくなってしまった私は、出来る限り月2回は「会員の部屋」へ通うようになっていた。初めの頃は、マンションの脇へ駐車しておけたのだが、次第にそうもならないようになって、中野のサンプラザの駐車場を利用するようになった。駐車場が満車で入るまで待たされる時はいらいらしたものである。「部屋」へはタクシーを拾って行くので、けっこう重いビデオ機材も別に苦にならなかった。

【29】 鬘の手入れ
 「遊び」をする時も鬘をつけたままなので、鬢のほつれや、髱の崩れが早かった。他にも日本髪の結い直しをしたい人がいて、オリエさんの知り合いの髪結いさんを呼んでくれることになった。下谷の方で美容院をやっている母と子が来て結い直しをしてくれた。それからは、その店まで何度か結い直しを頼みに行った。また、ビデオ撮影で好色な年増の猥らさを演出するために、それまでの「芸者島田」ではなく「つぶし島田」に結ってもらうようになった。

【30】 『風俗奇譚』の撮影
 こうしたビデオを撮るようになる前だったと思うが、私が「部屋」に行った日に、初めての人が来ていて、会長と歓談していた。初老という感じの人で、新しい会員かとも思っていた。化粧を済ませてリビングへ出てゆくと、会話の内容から『風俗奇譚』の社主であるらしいとわかった。他にも何人か会員がやって来て、それぞれ化粧を済ませた頃、その社主が連れて来たというカメラマンに写真を撮ってもらうことになった。
 ちょうど、私は芸者島田に裾引き姿であったので、ポーズをつけさせられて、何枚か撮られた覚えがある。しかし、当時はもう『風俗奇譚』は買っていなかったので、雑誌に載ったかどうかも知らない。会長としたら今までよりゆったりとした部屋になり、会員も多くなったことを見せたかったのだと思う。

【31】 関西からの客
 関西の女装者が好きな男性から、会長に「一度訪問したい」と連絡があったらしく、「できるだけ集まるように」と日取りが発表された。私も出掛けて行ったら、ちょっとした宴席が設定されていた。会長の懇意な人が来るらしいので、その日もこってりとした化粧をした芸者姿でいた。お客さんというのは、年配の小柄な方で愛想もよく、「近ごろは糖尿で役立たずになってしまったが、女装者の写真を撮るのを愉しみにしている」という方だった。私の芸者姿を気に入ったらしく、並んでいるところを撮らしたりした。後日、その時の写真を送ってくれたが、たいへん良く撮れていた。
 会長の顔の広さはたいしたもので、流石に長年女装者の面倒を見たり、そのための会を作ったりしているだけのことはあった。地方から出て来る会員もいるし、こうして新しい「会員の部屋」を見に来る人もいた。

【32】 一泊温泉旅行
 会員同士で一泊旅行をしようかという話もあった。私が参加したのは1回だけだったが、9人か10人で長野県の上山田温泉に行ったことがある。
 私ともう一人が車を出して、それぞれ分乗して2台での旅になった。運転する私としては、女装するのもどうかと思い、普段の服装で、宿に着いてから化粧をした。他の者は初めから女装してくる者が多く、賑やかなではあったが、トイレには困ったようだった。
 この時は、芸者も呼んだので、私は白塗りにはせず、洋装にして宴席に列なっていたが、会員それぞれが得意の女姿での宴で、お酌の芸者も大喜びだった。だが、私としては、「遊び」をすることもなく、心中甚だ心残りの夜になってしまった。
 帰りも何人かは女装姿で、「会員の部屋」まで戻って来たが、私は男のままだった。他の会員を送り届けるドライバーの役割であったが、過ぎてみれば愉しい憶い出になっている。

【33】 名古屋の男性専用ホテル
 会員の中で、仕事で関西へよく行くらしい人から、「大阪のミナミの方にある『唄子』という店がおもしろいけど行ってみないか」と誘われた。私の車で行くことになり、途中、名古屋の納屋橋側の「名宝会館」の裏に当たるビルが、女性お断りの男だけが集まるところで、そこに寄って一泊するという話になった。車のトランクに日本髪と洋髪の鬘、女装に必要な衣装、化粧道具を積み込んで、「会員の部屋」で落ち合って出掛けた。
 名古屋のビルの前が駐車場ビルであったので、そこへ車を置いて女装用品を入れたトランクを持ち、フロントで一泊するからと部屋を取った。宿帳を書かされたので、会員として使っている女装名の終わりの「子」を書かなければ男名前としても訝しくないので、そう記入した。先方は確かめもせずキーを渡してくれた。
 大勢で入る風呂もあった様だが、ルーム付きのバスで髭を剃れば、化粧をするのに困らない。いつもの様に入念なメイクをしてロングのウィッグ、娼婦スタイルの下着の上にドレス、ハイヒールを履いて部屋の外に出てみた。
 廊下を行くと、ソファーの置いてあるホールのような所があり、何人かの男たちが腰掛けたり、佇んでいた。女装している者は一人も居ず、私の方を見て興味を示す者も居ない。しばらくそこに居たものの、「ホモ」の集まりのようで居心地が悪い。少しばかり歩き回ってみたが、私を誘った連れは、女装して部屋を出て行ったはずなのにどこに居るのか判らず、仕方なく部屋に戻ってベッドの上で座っていた。
 さて、どうしようかと思っていたら、ノックもせずにドアを細めに開けて覗きこみ、私の方を見つめる者がいた。私が拒否していないと思ったのか、その中年の男はニヤニヤしながら入って来て、何かと話しかけてきた。私の好みのタイプではなかったので、適当に相槌をうつ程度にしていたら、30分程して出て行ってくれた。

【34】 大阪「唄子」で遊ぶ
 そんなことで、名古屋の夜は何事もなく、翌日、大阪の「唄子」という店に着いた。確か3階建てのビルの一部だったと憶うが、1階が店になっていて、カウンターとボックス席が2つか3つあった気がする。2階は楽屋兼女装用品の預かり場所で、バスも付いていた。夕方近くになると、店の方に二人、楽屋に一人がいた。
 女装者だけの店でもなく、普通の同伴客が話の種にと女連れで来てたりもしていた。女装をして店へ出てゲイボーイになった気で、そうした客と同席もできるようだった。カウンターでカラオケを唄う者もいる。女装者が女性のホステスとチークダンスもできる。女性が股を割りこませて来たり、腰を押し付けられたりもした。彼女たちを目当てに来る客は、地下の部屋でSM的な遊びをするのだとも聞いた。
 この「唄子」に2晩泊まったのだが、住み込みのチーフの部屋が3階にあって、2部屋ある一方で休んでいた。一晩は「遊び」の相手として、そのチーフを買ったのだが、満足する程でもなかったし、写真もモノクロで撮ったものの、うまく撮れていなかった。
 最初の晩、白塗りの日本髪にして、外出という程ではないが、店の近所へ連れ出された。通っている人たちの誰もが、特に珍しそうに見て行くでもない。東京でこの格好をしていたら、それこそジロジロ見られて、「オカマ」なんて言われたろうにと思ったりしたことを憶い出す。
次の晩は、洋装にして、店へ来た男女二人連れの客のボックスへ同席させられ、話し相手をしたりした。ちょっとばかりゲイボーイまがいの役をしてきたことなど、過ぎた日の憶い出の一つだ。

【35】 会長の逝去と会の解散
 あれは何年頃のことであったか、会長の「喜の字の祝」やると言うので出掛けた。「会員の部屋」では、いつもの様に誰かが宴席を支度してくれているようなので、私は白塗りの芸者姿で列席した。会長の懐古談などを聞いて、会の成り立ちやその他のことも新たに知った。
 この時の「会」の後は、会長に会うことも少なくなった。会の「部屋」へ来るのも減って来ていたのではないだろうかと思う。それからどのくらいの時が経ってだろう、会長が亡くなったと聞いたのは。
 会長が亡くなって、会の運営はオリエさん独りになってしまった。会員が増えることは望めず、若かった学生などの会員は、社会へ出てゆくと同時に足が遠のいてしまう。「エリザベス」なんていう女装の部屋ができると、「遊び」をしない者などは「富貴」なんてものを知る機会もないだろう。古い会員もそれぞれ年を重ねてくるし、次第にマンネリ化して来る。オリエさんにしても老齢期に入ってきて、会の維持に疲れもしてきたのであろう。会の解散と言うことを言い出した。
 オリエさんは、戦時中、満州に居たとか聞いていたが、その当時は、軍の将校相手の女装稼ぎで、若い時からこの世界で暮らし、妻も子もなかったが、昔からの仲間と余生を気楽に過ごしてゆこうと言うのであれば、会の解散もやむを得ないことであった。
 借りていたマンションの部屋を明け渡したのが平成2年(1990)8月だった。中野大久保通りへ通ったのは、20年になると思うと、感無量のものがあった。

【36】 アパートを借りる
 会が解散になって、さて、どうしたらいいのか。会員の相当数の者は、女装用品もけっこうあるし、各自でその処分を考えなければならない。だからと言って、女装そのものを辞めてしまうと言ってる者はあまりいなかったようだ。気の合った者同士で他に部屋を借りるとか、そんな動きになった。私にも誘いがかかり、3人ほどで今の部屋へ移ることができた。相変わらずの厚化粧の娼婦を演じることができれば、それで十分である。
 もし、誰も誘ってくれなかったら、女装用品だけでも段ボールの箱に幾つもあったし、家へ持ち帰るわけにもゆかず、私一人で、どこか小さな部屋を持つようになっただろう。
 今の部屋は、住み込みの者がいないので、行った時に誰かがいるというわけにはゆかず、帰るまで一人の時もある。少しばかり淋しいのだが、ビデオも一体型になり、録画もロングからアップのショットをリモコンで操作できる上に、カメラを上下左右に振り回す補助装置もあるので、一人でも撮影はできる。
 煌々と輝くライトを受けて、ソファーベッドの上で様々な姿態をする「もう一人の私」の悦楽状況をモニターテレビの中に見ることができる。「遊び」の相手がいる時も、一人の時も、それなりに化粧の仕上がり具合や、新しい衣裳の見栄えを確かめたりして愉しんでいる。 

【37】 「もう一人の私」になること
今にして思うと、女装に取り憑かれてからは、女房の他には女を買うこともしなくなり、「富貴」の会員としての秘め事を長年にわたって続けることで、折に触れて享楽の時を持てたことは、下戸の男の唯一の愉楽であった。本質的には「女姿」になった「もう一人の私」へのナルシシズムが、私を駆り立てていたのだと思う。
 大勢いた会員の誰よりも、化粧の濃いのが私だった。白塗りの時などは、脛毛と膝の生毛を剃った肌に足の裏まで白粉を塗り込める。全身雪の肌になることで「女」の意識に変わる。「もう一人の私」は、洋装をする時も顔だけでなく、首筋から胸へ、肩から指先まで、ファンデーションを塗る。上半身素肌でいたことはない。
 私が厚化粧の男好きの「女」に変わるのは、そうした寝化粧の女と閨を共にしたいという願望の裏返しなのだと思う。その願望が「もう一人の私」を濃艶な女に仕立て、猥らな娼婦のように男たちに抱かれる「遊び」に耽させているのだろう。それが私の理想の女なのだ。
 燃えるような緋色の長襦袢の乱れに、白粉の雪の肌を露にして、ほつれていく鬢の黒髪を揺すり、男の猛りを口に咥えてフェラチオを楽しみ、ワギナの代わりのアナルに男の硬直したものをインサートされる。沸き上がる女の気持ちに、腰を使い合い、女であればクリトリスに当たるはずだが、それにしては巨大に屹立しているものを指に掴まれて愛撫され、悶え、喘ぎ、取り乱してゆく濃艶な女の表情を鏡に写して見つめる。ビデオモニターの画面には、長い睫毛の瞳を投げて猥らな言葉を口走り快感にふるえる「女」が映っている。やがて、よがり声は泣きよがりになり絶頂へと昇りつめてゆく。「もう一人の私」の「女」が叫ぶ瞬間、私の尿道を灼けるばかりのものが噴き上がりほとばしり、暫し我を忘れる程の悦楽にひたる。
 女姿の「もう一人の私」になることは、まだまだ続けてゆきたいと思っている。

【38】 これから
 65歳を過ぎると、税法上の老人扱いとなるが、最近では百歳以上の方も多くなり、なお矍鑠たる翁の姿をテレビで見たりする。それに比べれば、当方はまだまだの青二才もいいところで、「老後」なんて言葉には縁のない生き方をしてゆきたいと思っている。
 定年制のある普通の勤め先ではなかったが、自分なりの仕事をするべく辞めての現役でもあるから、まだ若い心算でいなくてはと、月に一度くらいは「女姿」の若作りをしに東京へ行くようにしている。相変わらずの濃い化粧の女に化ける「女装」という秘め事を続けることは、他人には言えないが、私の人生にとって、結構、若さを保つためになっているのかも知れない。

【39】 あとがき
「女装の部屋」としての「富貴クラブ」が解散した当時、私が入会させてもらった成子坂下時代の会員はほとんど居なくなっていた。それ以前のことなど、何かで小耳に挟んだことはあったが、詳しくは聞く気もなかったので、この会が何時頃から何処で始まったのかは知らない。
 月に一度か二度くらいの割合で、会の「部屋」へ行く私は、「もう一人の私」に化けること、素顔からは想像できない女に変わってしまうことに専念していた。濃艶な厚化粧が「お立ち」との寝化粧になり疑似異性愛の女役としての「遊び」の悦楽に没頭していただけであったから、会の歴史などを語る資格はない。
 憶えば、人生の半分を女装に取り憑かれて来たようなものだから、私自身を語ることで「富貴」と言う女装クラブがどんな会であったかを察してもらえればとペンをとった。時を追って憶い出すままに書いたものを読み返してみると、悪文の未熟さと、「もう一人の私」になっての露出症的な恥さらしには、面映ゆいばかりである。私と同じような秘め事を持つ同好の士の目に留まることであるならば、その当たりは理解してもらえると思う。
 「富貴」の会員たちは、そうした淫らな快楽に耽る人ばかりではなく、女装をするだけで満足していた人も多かった。「女装の部屋」では会員たちの間に争い事はなかったし、どの人にしても、善良で小心な紳士たちだった。
 こうした別世界での顔であった会長と、大勢の会員の面倒を見てくれたオリエさんのお二人の存在が、この会の一時の隆盛と長い存続を保てた根本だったと思う。
 今はただ懐かしいだけである。


成子 素人「もう一人の私 のこと」(前編) [性社会史研究(女装者の手記)]

も う 一 人 の 私 の こ と (前編)

   -「富貴クラブ」の女装者、小池美喜の手記-
                    成 子 素 人

【1】 はじめに
 かって、「十年一昔」と云う言葉があった。この頃、叫ばれている「IT革命」の時代ともなると、次から次へと新しい機能の組み込まれた製品の氾濫で、半年か1年で旧式の機器となってしまう世の中では、既に「死語」となってしまった。それなのに、35年も前からのことを書いてみようと思ったのは、老いてきた証拠かも知れない。
 人々の生活が次第に良くなって、一般の家庭に家電製品が揃いだしたのは、昭和30年代だった。その後半、車もボツボツ一般化しだしていた頃、ある古本屋で『風俗奇譚』という月刊誌のあることを知った。
 内容の多くは「S(サド)」「M(マゾ)」の体験談や創作で、人によっては男女共にそれぞれであるのは当然としても、私にはそうした趣味はないので、読み飛ばしてしまったものの、私の興味を惹いたのは「女装」に関する投書欄や記事であった。
 職業として女装する「女形」や「ゲイボーイ」の類いではなく、素人の社会的職業人で「女装」に執り憑かれた人のことだった。もっとも「奇譚」であるから、そうした珍しい人がいても不思議ではないと思った。私にもそうした願望があることは、前々から気付いていたので、それからは毎月『風俗奇譚』を買うようになっていった。

【2】 少年時代の憶い出
 私に「女装」への願望を抱かせたものは、少年の頃の憶い出の中にあった。その最初の憧れに似た思いが、私の心の底のそのまた奥底に「もう一人の自分」を住みつかせてしまったのだと思っている。後にいくつか書いた詩の中から引用してみよう。

 無理難題の科白の憎々しく、
 詫びれば詫びる程つけこむ悪役に許しを乞う艶麗な美女。
 抱きつかれる手を振り払い逃げるのを、
 そうはさせじと追い廻す。
 舞台に惹きつけられる観客の興味を盛り上げて、
 タタンタタンタンと床を叩く拍子木の音。
 衿を剥がされた肩から背中まで肌けた上体をのけぞらして、
 解かれた帯をたぐられるまま、
 よろよろよろと悪役の腕の中へと倒れ込む。
 女の後手に縄尻を把ませて縛り上げられた形の責め折檻が見せ場とばかり、
 悪党面のしゃがれ声の雑言に髪を振り乱してゆく。
 凄艶な舞台化粧の美貌が苦痛にゆがみ、
 ふりしぼる恨み言も甲高く、天井も無い筵掛けの星空に響く。
 舞台の袖で板を叩く拍子木に合わせた打擲が続くままに、
 縄をかけられた濃い白粉の肌を震わせてはのけぞる乱れ髪の女の
 余りの濃艶さに息を飲む観客の見つめる舞台。
 転がされた緋色の裾からこぼれる腿の奥までも塗りこめられていた
 真っ白な白粉の眩しさ。
 助けを求めるような怨ずる眼刺しの色気。

 それは、私が9才か10才の頃、映画はトーキーになっていたが、モノクロのスクリーンで、ラジオがようやく一般的になった時代の夏の宵のこと、私が白粉にとりつかれた日だった。今にして思えば、そうしたあぶな絵のような演出と筋立てが、好色な大人たちを愉しませ、女達がしぼる紅涙は、美しさが故に非運に会う同性へのジェラシーの裏返しと、儚ないひとときの優越であったことなど知るよしもない幼なき日の田舎廻りの舞台だった。
 久し振りの芝居見物に座布団を抱えた大人たちが、昨夜の続きを観るのに敷きつめた筵の好みの場所に陣をとりだす。薄暗い裸電球の掛小屋である。ペラペラの幕が風に揺れる丸太を組んだ舞台の下へ入り込んだ子供たちが、筵掛けの隙間から漏れる灯りに思わずも覗くことができた楽屋は幻想の世界だった。
 裸電球もそこだけは明るく、何人もの役者が鏡に向って顔の拵えにかかっていた。その中の一人が男の双肌を見える限り真っ白に彩ってゆく。濃い白粉を刷毛で塗りこめ素肌の見えなくなった顔に、眼張りと女眉。紅く染められてゆく唇が、昨夜の舞台で縛られていた美貌の女になっていった。あの甲高い声で泣き叫んだのが女でなかったとは・・・・。
 顔が女になると投げ出した足の裏から腿の奥までも真っ白な白粉に包みこまれた丸味を見せて嘘のように女に変わってしまった凄艶な美貌の女形。息のつまるようなときめきが幼ない私の心と躰を震わせ、駆けめぐような血の逆流に動くこともできなかった。
 今も尚、瞼の裏に焼きついているあの夏の夜の発見だった。

 「女形」についての知識は、その頃からあったのだが、舞台化粧によって男から女に変わるのを自分の目で見たのは初めてだった。家にあった「演芸画報」の歌舞伎の女形や新派や曾我廼家一座の女形の写真にしても、当時はモノクロであったし、真白な白粉の肌に描きこまれる女眉や眼張り、紅い唇の生々しさや、華やかな女衣装の裾からこぼれる緋の色の鮮やかさに昂奮したことを憶い出す。

【3】 青年時代
 青年ともなれば、大人の仲間入りで、前々からの乱読が性の知識を増してくれた。
 性の慾望が男と女との間だけではなく、武家社会の「衆道」としての「男色」が歴史的にも旧いことや、四代将家綱が武家の男色を禁じたことも知った。若衆歌舞伎の前髪を切らせ野郎頭にさせたのも、その前に禁止されていた女歌舞伎に代り、女形が必要になっていた若衆歌舞伎では月代を剃らず自毛で女の髪が結えたからだろう。
 昔も今もだが、風紀の乱れなんてものは、色々とあったことだし、子孫を残す為だけではない人間の性慾は、多分に個人差があるもので、人によっての好みもまたいろいろであって各人それぞれだろう。
 「女色」を禁じられていた僧侶が、性の吐け口として美麗な若者に華美な衣装を着せ寺小姓として置いたり、住職にもなれぬ者たちなどは、歌舞伎の大部屋の「女形」を、肉体的には女でない女として買い、出合茶屋での逢引きに「疑似異性愛」の慾望を満たしていたのだと思う。女と寝たのではないとの言い訳にもなっていたのだろう。
 女形の方も、年とともに髭の剃り跡の濃くなる者は、若い女形のようにはゆかず、今度は後家さんや浮気な女に抱かれたのだろうが、女にとっても女形役者の優しい仕草や身のこなしは、普通の男よりも性の対象としての妖しさがあったのだろう。
 私も遊びとしてのセックスであれば、女は買うものであり、金さえあれば悪友などとも女を買いに通った。素人の女は私にとって女房だけであるが、「売春防止法」が施行された後も、付き合い上、女を買う羽目になれば、すぐに同調する助平でもあった。

【4】 初めての女装体験
 まだ自分で「女装」をして見たいと思っても、実際に試して見る所まではゆかず、女を買うときはいつも化粧の濃いのが好みだったが、泊りになると化粧を落としてしまう女もいて、がっかりしたものである。
 或る時、友人と2人で温泉旅館に一泊することとなり、芸者を呼ぼうと仲居に頼んだところ、泊りをするのがやって来た。2人とも大して酒も飲めないと分ると、1人が「化粧をして見ない・・・」と芸者の鬘をつけさせられて、2人とも交替で写真を撮ったりした。だが、急場の簡単な化粧だったので、撮れたのを見て心中大変不満足で、一度本格的に舞台化粧のような、濃艶な女装がして見たいと思った。

【5】 「富貴クラブ」入会
 前置きはこの位にして、『風俗奇譚』に載っている「富貴」と云う女装クラブの存在が、頭から離れなくなっていた。だが、その頃、わざわざ東京まで出掛ける時間的余裕は無かった。たとえ仕事で東京へ行くとしても、何ケ所かを廻るのが常で、国電の乗り継ぎや、タクシーを拾っての訪問先廻りを終えると、帰りはいつも夜になる。翌日の仕事を考えると、身体を休ませるのが先だった。
 昭和40年(1965)7月12日、その数日前の7月8日に亡くなられた河野一郎大臣の東京での葬儀が、築地の本願寺で行われた。私も係わりのある者として、大勢の弔問者の列に並んだ。通常の仕事と違って、鞄も持っていないし、平服でもあったので、明るいうちに急いで帰ることもなく、久しぶりで自由な時間を持てた。
 そこで私は、前々から興味を持っていた「富貴」という女装クラブへ行ってみたくなった。だが、連絡先である私書箱宛に何の申し入れはしてないので、どこにあるのかさえ分かっていなかった。『風俗奇譚』に載っていた「つぼい」さんという同好の人が、新宿2丁目でバーをやっているのを覚えていたので、とりあえずそこを捜し当てればと思い付き、早めの夕食を済ませてから二丁目に向かった。
 どうやらそれらしい店を見つけ、入り口に近いテーブルについて見廻すと、女気はなくカウンターの辺りに5、6人の若い男たちが改まった服装でもなく屯していた。私の方を見る目が店へ来た客でもなさそうだった。1人が飲み物の注文をとりに来たから、バーでもあるからとウィスキーのシングルを頼んだ。カウンターの中にいた中年の人が、「つぼい」さんだったのであろうが、今まで若い者たちにお喋べりしていた続きらしく、どこかで愛してやった若者のペニスが如何に逸物であったかを語り出した。注文を聞いていった子が、テーブルの上にウィスキーのグラスを置くと言った。
「どの子にします・・・」
「えっ・・・」 
 ああ、そうか、ホモの客が若い男を買いにくる所かと思い、奥の方の青年達の眼差しもなるほどと思えたし、女装の者がいないのも合点がいった。
「いや、『風俗奇譚』で読んだものだから・・・」
「ああ、お客さん、メケてる子がいいのね」
「・・・雑誌に女装クラブがあるとか・・・」
「ああ富貴のことね」
「うん、何か・・・新宿にあるように思えたんで・・・」
 ウェーター係の若者がカウンターの方へ振り返ると、「つぼい」さんらしき人が、馴れた風で言葉を引き取った。
「お客さんの方がしたいのね。いいわ、誰かに案内させるから・・・。ええっと、あんた成子坂下の知ってるわね、オリエさんのとこ、この方連れてってやって、私がそう言ったって・・・」
 ということで、女装したがっている男だというのに、誰も変な顔もせず、若い子の1人が案内してくれることになり、青梅街道の成子坂下のアパートの一室へ着いた。
 アパートと言っても、日も暮れていたし、廊下ではない通路は土間で薄暗く、何か飯場か何かの跡の様だった。部屋の踏込も土間であったように憶う。
 案内の若い子が、バーの店主の伝言を言うと、
「ああ、そうなの。宜しくね・・・まあ、どうぞ上って」と声が聞こえた。
入室することが出来たので、案内の子に礼を言い、「少ないけど」と500円を渡した。
その部屋は6帖と8帖の二間だったように記憶しているが、奥の方に5人の和服を着た女装者がいたのものの若い子はいず、余り華やかな感じではなかった。
 手前の座敷にいた年配の人が、2丁目のバーからの案内であったので、「まあいいか」という感じで、話しかけて来た。
「女装したことがあるかい」
 第一問だった。これには前々から願望としてあったので、先頃、旅先の旅館で芸者に女装させられた話をした。
「女装をするなんてことは他人には知られたくないし、この会に入ってもお互いに身許は秘密にしているが、会長である自分には、正直なところを言ってもらわなくては」
と、会長と名乗った年配の男性が言う。
 入会する以上、嘘を言っても仕方のないことで、申込書に住所、氏名、電話番号を記入し、勤務先の名刺をつけて出した。それが気に入ったらしく、会の色々な取決めや、負担すべき費用、会の備品である衣装や鬘、化粧のこと、身体一つで来れば「女姿」になれることの説明をしてくれた。会員になる以上、「女名前」を名乗るようにも言われて、入会金を払い会員になれた。

【6】 成子坂下の「部屋」で
 この間、30分ほどであったろうか。
「せっかくだから、化粧をしてみるかい」
「そうよ、このまま帰ったって・・・、女装したくて来たんでしょ。お化粧して綺麗にしてあげるわよ」
 会長と一緒にいた小柄な人が、女言葉のような言い方で、会長の言に引き続いて声をかけてくれた。
「ああ、そうしたらいい。オリエさん、化粧してやって・・・。どんなになるか、楽しみだよ」と会長。
「じゃあ、まず髭を剃らないと・・・」
洗面器に、石鹸と剃刀、タオルを入れて渡してくれた。
「部屋を出たとこに、水道の蛇口がついた洗面所があるから、そこでね。鏡もついてるわよ」
 薄暗い通路の板壁に取り付けた洗面台で、湯は出ないまま水で顔を洗い、髭を剃った。
上半身は裸になっていたので、部屋に戻るとパンツひとつにされ、鏡台の前に座らされた。
「どんな風がしたいの」
「ええ、日本髪の女姿がしてみたいですけど」
「わかったわ・・・じゃあ、目をつぶって・・・」
 目を瞑じて顔をまかせると、まず眉をつぶすことから始まり、顔から首の廻りと襟化粧の白粉刷毛が冷たく気持ちいい。粉を叩かれて頬に紅、眉が描かれ、眼張り、口紅と、顔のこしらえをしてもらう顔が、鏡の前で神妙にしている女に見えないこともない。
 長襦袢に着物と、着付けをしてもっているうちに、肌の感触が温泉旅館での夜を憶い出させた。日本髪の鬘をつけてもらったが、少々窮屈な感じだった。
「さあ、綺麗になったわよ。鏡を見て・・・」
改めて鏡台の鏡に映してみた私の女の姿は、芸者にしてもらった時より、顔のこしらえは眉も女らしく、目許もはっきりしていたが、肌の白粉がそれ程濃くなく、思っていた雪の肌とは云えず、鬘も心持ち小さめのようで、艶やかな女姿と云うには遠かった。
「ねっ、綺麗になったじゃない・・・」
化粧してくれたオリエさんにそう言われては、不満は言えず、品を作ってみたりした。そして、写真も何枚か撮ってくれた。
 突然の飛び込みであったが、女装クラブの会員になれたし、化粧もしてもらって、近いうちにまた来ようと思った。

【7】 番衆町の「部屋」で
 と言っても、東京に住んでいる訳ではなく、月に一度や二度は仕事として来るものの、なかなか時間的に新宿へ足を伸ばす折がなかった。ようやく夕暮前に用を済ますことが出来た日、いそいそと成子坂下のクラブの部屋へ行ったところ、そこに別の人が住んでいて、前住者のことは知らないと言う。
 そこで、会の部屋が何処に移ったのか、最初に案内してくれた「つぼい」さんのバーへ行き、もう一度お手数をかけることになった。快く移転先を教えてくれて、前と同じように案内人をつけてくれた。
 そこは新宿2丁目からは程近い厚生年金会館の裏の通りに面した喫茶店の2階だったと記憶している。入口は別になっており、階段を上がると前の所より明るい部屋だった。化粧中の人や女装しておしゃべりを愉しむ者など、もう何人かの会員が来ていた。オリエさんも歓迎してくれた。
 今度の所も、バスが無く入浴はできなかったので、化粧落しは、コールドクリームに頼るしかなかった。襟白粉を真っ白に塗っての芸者姿など後の始末を考えるとできず、それに会の所有の日本髪は私の頭に合わなかったので、専ら洋装での女装をするようになった。
 その場合、会の決まりで身につける下着類は、各自専用とするようになっていた。当時はまだ「エリザベス会館」などは無かったので、パンティ、ブラジャー、シミーズ(後にはスリップ、キャミソール)、ストッキングにガーターベルト、それに洋髪の鬘を横浜の元町で買った。鬘はロングのウェーブの茶髪にした。化粧品なども、眉つぶし、ファンデーション、パウダー、アイライナー、アイシャドー、付け睫、頬紅に刷毛、ルージュ、マニキュアのエナメルなど、思いつくままに買いやすそうな店があると、恋人にでもやる顔をして買っていった。だんだん慣れてくると、衣装にしても色の違うものや、ワンピースなども買えるようになった。
 ハイヒールが欲しかったが、スパイク・ヒールの9センチ以上のものは、なかなか足に合うのが無く、会員の一人が売ってくれたのを履くようにした。娼婦スタイルの濃艶なステージ化粧まがいのやり方に慣れてくるのも、そんなにかからなかった。女の化粧については、前々から秘かに注目もしていたし、自分なりに活字からの知識で研究していたせいもあったろう。
 その頃、私は地元で近間を走り廻るのに、車の運転を他人に頼んでいては駄目だと、免許を取った。移動時間の短縮に今までの何倍も役立ったし、少しばかり度胸がついてきて、東京での車の渋滞も平気になった。
 車で東京へ出て来られるようになり、会の部屋の前の道路の向い側はまだ空き地であったし、駐車禁止にもなってなかったから、割合ゆっくり出来るようになった。歌舞伎町にある歌声喫茶の前あたりに、スチーム・バスと言って「トルコ風呂」ではないマッサージ付きの銭湯といったのがあって、夕方の5時前に入れば500円で入浴できた。髭も剃れたし、女の子が流してくれた。マッサージを含めてチップは別だったが。それで会員の部屋に来ればすぐ化粧にかかれるようになった。

【8】 濃い化粧の女
 濃い化粧の女に化けていく。もう一人の私が鏡の中にいる。女眉がうまく描き、アイラインで眼をくっきりとさせ、アイシャドーを入れ、長めの付け睫毛をつける。ルージュは唇を大きく厚めに肉感的にする。自分でもうっとりとして来る。ウェーブのきいたロングのウィッグが両肩に波打つのを整え、イヤリングをつけ、ネックレスをする。ブラジャーの下にパットを入れバストの膨らみを作り、ガーターベルトでストッキングを吊り、短めのスリップとワンピースで、艶やかなホステス風の姿になったのを、姿見に映してナルシシズムに浸る。
 成子坂下の時を思えば、会員も多くなった。私はそうちょいちょい来るわけではないが、いつも来ている人もいた。初めての顔の者もいるし、それぞれ好みも違うようだった。会長などもよく来ていたが、私としてはただ女装をすれば満足で、「遊び」などはまだまだだった。
 行く度に女姿のいろいろなのを写真に撮っていたが、その内の何枚かを女房が見つけて「何処の女か・・・」と疑われてしまった。『風俗奇譚』を見せて「富貴」のことを説明し、前に行った時に撮った写真で、私なんだと話をした。半信半疑であったので、子供が寝静まってから、化粧をして見せたところ、納得はしたものの「気持ち悪い」と言われた。しかし、女を買いに行かれたり、浮気をされるよりいいと思ったらしい。街に出た時、ウィンドゥで見たワンピースが身体に合いそうなので、買わせたこともあった。
 女房も公認ともなれば、少しばかり遅く帰っても気が楽であった。夜は必ず風呂に入ることにしていたので、コールドで落としただけの化粧の肌も改めてよく洗い流すことができ、女装の昂奮の残りで抱いてやれば、それなりに夫婦和合にもなっていたと思う。
 私はSやMの趣味はまったくなく、ただ女の姿をするだけであり、濃い化粧をした「もう一人の私」でいる間のナルシシズムに疼く身体は、時にはトイレでのマスタベーションで満足させるくらいで、他の会員とのセックスはなかった。

【9】 会員同士のセックスを見る
 ここには確か3畳位の小部屋があった。布団が敷いてあったりして、気の合った者同士が、そこで互いに慰め合っていたのだと思う。或る時5、6人の会員が居る座敷で、スリップだけになった若いのが、仰向けに下半身を丸出しにし、フェラチオをされていた。和服の中年の会員が、屹立したものの根元を把んでルージュの唇に銜えこんで、鬘の髪を揺らし揺らし、咽喉を鳴らしていた。他の会員の誰もが見ぬふりをしているものの、初めてこうした所を見る私は、どうしていいかわからないうちに、若い会員の方が喘ぎ始めた。呻き果てるのを銜えたままの中年は、ほとばしらせたザーメンを呑みこんでしまったようだった。ああ、これが「喰う」と云うことなのかと思いながら、私のパンティの中の勃起していたものも、気がつくと腿の方まで雫を垂らしていた。

【10】 諏訪町の「部屋」で
 番衆町の「部屋」には、昭和43年(1968)の終わり頃まで居たのだと思うが、移ることになり、今度は行き先を知ることが出来た。そこは高田馬場駅の近くで諏訪町と言ったと思う。5階建マンションの最上階の一室であった。
 移った先のマンションはエレベーターがなく、建物の中心に当たる箇所に階段があり、各階の部屋はその階段を囲むように配置されていた。部屋は畳のが二間で、玄関を入ったところが、ちょっとしたホールになっていて、ソファアを置ける広さもあり、バスルームへの入口になっていた。風呂のある部屋へ移れたことは何よりも嬉しかった。畳の部屋は、小さい方を楽屋にして、オリエさんの私物や、会員の女装用品の預かりで、少しばかり窮屈ではあった。
 風呂へ入って髭を剃り、脱毛クリームで脛毛と腕の産毛を落としたスベスベの肌になったところで、首筋から胸へかけてパンケーキを塗りこめる。顔だけ濃い化粧をすると、写真に撮って見ると、お面を被ったようになってしまうからである。アイラインに女眉、アイシャドゥに長い付け睫毛をし、頬に紅を掃く。生き生きとしてきた顔の仕上げは、厚い唇に見えるようにルージュを毒々しいまでに濃く引く。妖艶さを増すためにカールとウェーブを効かせたロングのウィッグをつけて、爪には赤いマニキュアを施す。
 脛毛のない脚にストッキングを履き、ガーターベルトで吊ってから、色物のパンティをはき、パットを入れたブラジャーで胸の膨らみを作ってから、買って来た派手なワンピースを着る。イヤリングとネックレスをして出来上がった女姿を鏡に映し、もう一度パフを叩いたり、紅筆でルージュを塗り重ねる。アイラインと付け睫毛をした眸が、うっとりと「もう一人の私」に酔い始めて、ナルシシズムの昂まりに身体が疼き出す。

【11】 「遊び」への誘い
 日曜の休みにやって来たので、午後に入ったばかりのことだった。玄関のホールのソファアに腰を下ろしてハイヒールを履いた脚を組み、女装に関する雑誌や写真集を手に取って眺めたり、誰か他に会員でも来ればと煙草をふかしながら壁の鏡を見たりしていた時、オリエさんが「キレイよ、小池さん」と声をかけてきた。
 私の女名前は、自分でも口にしなかったせいか、仮の姓の方で呼ばれていた。同じような人も何人かいたが、「遊び」をしないことや年配のこともあったのかもしれない。若い子は気軽に女名前で呼び合っていた。
 「お化粧も上手になったし、本当にキレイになってるわ・・・。これでもっと色気が出せるようになれば、他の人だって放って置かないわよ」
「キレイよ」って言うのは、オリエさんの口癖のようなもので、会の実務を任されている上での営業上のお世辞であろうが、言われた方は悪い気持ちはしない。もう一度、鏡の中を覗き込むようになる。
 「女装するだけじゃ、つまらないじゃない。外へ出掛ける訳でもなくて、せっかくキレイになったんだから・・・。ねっ、一度、バックを受けてみない・・・」
 今までも「女装をするんならバックを受けてみなくちゃ、女の気持ちも解らないし、女の気持ちになれば、自然に色気も出て来て、男の方だって誘い易いもの」「一度、抱かれてみたら、忘れられないわよ」なんて聞かされてはいた。女役をするということは、オカマを掘られるということで、どんなことになるか興味が無かったわけではないが、試みてみようとは思ってもいなかった。
「ネッ、よかったら、私が手ほどきしてあげる」
とオリエさんが熱心に勧める。これまでオリエさんの歴史の一部を聞いたところでは、戦時中、満州に居て女装で軍人さんの相手をしていたとか。将校の中にはそうした趣味の人もがいたのだろう。どちらかと言うと小柄な方だから、若い時は随分とキレイになれたのだろうと思う。そのオリエさんの男役なら、そんな手荒なこともしないだろうと思い始めていた。

【12】 「女役」の手ほどき
「ネッ、どうするの。バック受けてみる・・・」
 そうまで言われると、女装するだけで疼く体が「遊び」というセックスを試してみたいと思わないでもない。
「ええ、でも痛いんでしょう」
「あらっ、最初だから、ちょっとわね・・・、でも、すぐによくなるわよ。あまり痛くないようにやってあげるから、そんなに心配しないで」
「ええ、お願いしようかしら・・・」
「そう。あら、ハイヒールの脚がきれいよ。お化粧も方もいつもよりきれいだし、香水の匂いもいいわ」
 そう言いながら、ソファーの私の隣へピッタリと体を寄せると、私の体を抱き、一方の手をワンピースの裾から滑り込ませ。内腿の辺りを撫ぜ撫ぜする。手がパンティの上から股間へと伸びてくるまでに、私の方はもう硬直しきっており、パンティの中からつかみ出されてしまった。
「あら、立派だわ。ここじゃなんだから、座敷の方に行かない?」
 奥の部屋の座布団に腰を下ろすと、パンティを脱がされ、後ろ手で上体を支える形で脚を拡げたところへ、オリエさんが割り込む形で、私の屹立しているものをフェラチオし始めた。手は肛門の辺りを撫ぜていたが、コールドクリームをつけた感じの指が、そろりと侵入してきて、指の数を増やしながら締まっているところを押し広げるようにしながら奥の方へと指を入れてくる。
 フェラチオだけでも、快感に燃えている私は、喘ぎだし、声も漏らし始めていた。このままでは、ザーメンを噴き上げてしまうと思っていたところ、オリエさんが顔を上げて「ふふふ・・・」と笑いながら、
「さあ、入れてあげるから、寝ちゃって」
と、もう1枚の座布団を押しつける。
 コールドクリームをペニスに塗りつけたオリエさんは、しごいて勃起させながら腰を寄せてきた。それを私の肛門へ当てがい、私の顔を見ながら押し込む。
「ああ~っ、痛た~っ・・・」
裂けたかと思うほどの痛みが走り、思わず声をあげてしまった。腰を引くようにするのを押さえ付けられる。
「初めは痛いわよ。我慢しなきゃあ。女だって初めの時は痛いって言うじゃない」
 痛みは瞬間的とも言えるもので、押し込むのを中断されている内はいいのだが、腰を押し付けられるとともに、再び激しい痛みに襲わる。声を上げたものの、私の肉体に押し入ってくるものは止まらず、我慢するしか仕方がなかった。
「きれいよ。女装してるんですもの、女にしてもらうには、少しは我慢して。入ってしまえば、じきによくなるわ。いいっ」
 その言葉通り、オリエさんのグランツが私の括約筋を通り抜けたあたりから、痛みも次第に薄らいできて、ゆっくりとした抜き差しをされだした頃には、痛いという感触は消えてしまっていた。
そして、アナルの柔らかな肉の壁にコールドクリームが行き渡り、滑りが良くなったせいか、初めて異物を受け入れた肉体は、浅く、深く、突き立てられだすままに、まだ快感ではないものの、女になった気持ちが芽生えてくる。痛さのために萎縮していたペニスも、オリエさんのコールドクリームの指がしごき始めと、屹立を取り戻した。
「ほら、もう痛くないでしょう。よくなってきたわよね。うふふふ・・・、女になってるのよ。ほら、横の鏡を見て、女になってる顔をよく見るのよ。色っぽいくらいきれいよ」
 「きれい」と言われると、妙に感じるもので、鏡の中の濃い化粧の女の顔が、腰を押し付けられる度に、長く揺れる付け睫毛のアイメイクの瞳をうっとりさせる。それを見ながら、女にしては巨大なクリトリスへの愛撫から生ずるセックスの快感が燃え上がり、喘ぎ喘ぎするルージュの唇から切れ切れにあがる声音も、女そのものになっていく。
 やがて、オリエさんの絶妙の手ほどきを受けて絶頂の時を迎える。快感のほとばしりが灼けるばかりの感触を尿道に残しながら噴き上げた時、濃い化粧の女の顔に浮かんだ歓喜の表情は、忘れられないものがあった。
 こうして女役としての「遊び」を手ほどきは終わった。

【13】 女役として出発
 この最初の儀式は、その後の「もう一人の私」を完全に変えてしまった。三日程の間は、アナルにインサートされた男の猛りの感触が残っていた。
 その時以来、オリエさんは、男役をする会員が来ている時など、
「この頃、遊びをするようになったのよ。キレイでしょ。抱いてやったら」
なんて、女郎屋のやり手婆さんよろしく、まだ自分からは誘えない私に「お立ち」を引き合わせてくれる心配りをしてくれた。
「これからは、男が欲しくて仕様がないわよ」
と言うオリエさんの言葉は嘘ではなかった。
 月に一度か二度だが、部屋に行けるときは「大人のおもちゃ屋」で形やサイズの違うものを買ってきて、化粧を済ませると、いつ女役として遊んでもいいように、アナルの括約筋を緩めるために、それをインサートしておくようになった。

【14】 芸者島田の鬘を買う
 諏訪町の「部屋」には、バスルームもあり、白塗りもできることから、日本髪の芸者姿をしたいと思った。会の「島田」は私の頭には合わないので、買うことにし、どこの鬘屋へ行こうかと考えていたところ、一人の会員が知り合いの店があると言う。同行してもらい、確か大森の方であったと思うが、環7に面した鬘屋で、頭の鉢廻りを言って買うことができた。
 衣裳はオリエさんが買い揃えてくれると言うので、和装一通りを見繕ってもらうことにした。白粉や紅、下地用・仕上げ用の刷毛類、かつら下の紫の羽二重など、舞台化粧に必要な物一切は、祭の時に使うのに要るからと、自分で浅草のコマチ屋で買った。その頃は、ゲイバーへも行くようになっていたので、彼らの着こなしや化粧を観察した。話の端々でも結構得るところがった。
 こうしてこってりとした白塗りに、買ってきた鬘をつけた姿を写真に残したりした。しかし、何回か試すうちに、芸者島田に結ってはあるが「地がつら」では、私の思っていたのと違い、生え際が網目でないのが、少しばかり不満足だった。
 たまたま、会員同士が、浅草の鬘屋へ行く用があると話しているのを聞いて、どんな店かを尋ねて、私の希望も話したところ、「一緒に行って注文したらいい」と言うことになり、私の車で三人で行くことになった。彼らは日本髪の結い直しを頼んであったようで、用件はすぐに終わり、私の求めている網目の芸者島田の注文も引き受けてくれた。頭の鉢どりをしてもらい、半月ほどで仕上げてもらえた。代金は確か15万円であったように記憶している。

【15】 「部屋」での過ごし方
 白塗りの化粧も、要領がわかってくるまでは、女形役者の舞台化粧のように手早く妖艶な美女に変わるなんてわけにはいかない。少しずつそれなりに研究と慣れを重ねる必要があったので、ゆっくりと時間をかけて変わっていく自分自身を楽しむように心掛けていた。 それに、夏場の暑い時などは、着物を着ようなんて気にはなれない。まあ浴衣って手も無いではないが、いずれにしても、「遊び」をする前に汗だくになるのは、色気も無い。それで、白塗りは専ら冬場が主体になってしまう。
 春から秋にかけては、やはり洋装での女装であり、その時、その時の衣裳やウィッグをして、写真を撮る。一人の時は、セルフタイマーか、オリエさんにシャッターを押してもらい、下着の色が変わった時は、ソファーで体を露にしたいろいろなポーズを撮った。他の会員が来るまでは、そうして時間をつぶして、化粧直しを何度もした。

【16】 西塔会長のこと
 会員の中には、ここに来て女姿になると、夜の街へ出掛ける人もいるようで、私などからは度胸がいいと思うばかりだ。プロでもないのに女姿で街を歩いて不審尋問をされたら、単なる趣味とわかっても、引受人がいなければ、警察は帰すわけにはいかない。そんな時の引受人として西塔会長は、警察からの要望に答えていた。この「富貴」という会を始めるきっかけも、そんなところにあったと聞いていた。
 会長は、若い頃から演劇関係の女形を愛したことで、その世界では有名だったようだ。『風俗奇譚』に会長の書いた小説などが載っている。会長のペンネームは「鎌田意好」であり「カマダイスキ」と読める。プロでない女装を趣味とする者への心優しき理解者であったのだと思う。私が入会することになった成子坂下の部屋も、最初からは幾つ目かの部屋だったのだろうか。

【17】 マンションの屋上で
 夏のある日のこと、いつもの様に私は、濃艶な化粧をして、娼婦スタイルの肌にたっぷりと香水を振りかけ、涼しげなワンピース姿でハイヒールを履いたまま、玄関ホールのソファにいた。この日は何人もの会員が来ていて、気の合った者同士での「遊び」が座敷の方で行われていたので、支度ができたところで一服をホールでしていた。
 そこへオリエさんが来て、
「屋上へ行ってみたら。涼しいわよ・・・。ああ、今日もきれいよ」
と声をかけた。
 言われるままに部屋を出て、5階の屋上へ出て見ると、夜景が素晴らしいということもない。ただ、灯りもなく薄暗いのと、その頃はまだ大きな建物も少なかったので近くに覗かれているような所もない、というのが取り柄だった。ハイヒールをコツコツとさせて歩いていると、ベンチが一つ置いてあったので、そこに腰を下ろして、ハンドバックから煙草を取り出し一服した。
 すると、階段を上ってくる足音がした。ここの居住者の誰かだとすると、変に思われるかもしれない、と思っていたところ、現れたのは会員の一人だった。ああ、オリエさんが送り出したのだなと思った。
「あら、屋上は涼しいわね・・・。ベンチもあるのね」
と、この人は、私の脇に腰を下ろして体を寄せて来た。
「この頃、『遊び』をするんですって、オリエさんが言ってたわよ・・・。香水の匂い、いいわぁ。それにいつもきれいになって、どこかのホステスみたいよ」
 そう言いながら、腿の上に置いた手が、スカートの裾をたぐり寄せ、内腿の素肌へと入ってくる。パンティの上から撫ぜ始めるままに、私のものは勃起してしまい、硬くなったのをパンティからつかみ出されてしまう。
「ねえ、少しパンティを下ろさない?」
腰を浮かしてやると、パンティが引き下ろされる。
「あらっ、立派だわ。おいしそう・・・」
そう言って、私の屹立しているものを掴んだまま、ルージュの唇にくわえ込んで、フェラチオをし始めた。
 唾液に濡れきった口腔で舌をからませてしゃぶっては、洋髪の鬘の頭を上下させて、唇で締めつけるようにしてくれる。その快感に、私も何かして上げなくてはと、相手の股間へと手を入れて、膨らみかけているのを硬くしてやり、指で愛撫をしてやる。
 しばらくはそうしていたが、フェラチオされている方の快感が昂まってくるばかりで、知らずに喘ぎを洩らしてしまう。呻くままに絶頂を抑えきれなくなった。
「あっ、ダメよ、出ちゃうわ・・・」
ところが、ますます激しく音を立てて攻め立ててくるので、「ああ、この人は『喰う』つもりか」と、少しばかり気楽になり、快感のほとばしりに身をゆだねた。

【18】 「部屋」の移転
 他の会員たちも、この屋上を使ったのではないだろうか。それに会員の部屋への出入り、日暮れ近くの頃から色々な男たちが5階の部屋へ入っていくのを、他の居住者は、何か不穏な連中のアジトかと想ったのかもしれない。大家の方へそれなりの申し入れがあったのだろう。契約期間が終わったら、更新はしないとされてしまい、別の場所を探さなければならなくなった。
 移るべき場所が見つかったけど、保証金だか敷金だかの他に、仲介料や礼金などで相当額が必要だということで、会員の中の主だった人たち10人近くで各自10万ずつ出し合わねばと言うことになり、私も求められるままにその一員になった。
 移転先のマンションは、6階の隅の部屋で、3LKの今のマンションより広いということだった。引っ越しの荷物運びなども、会員の中で手伝える者がすることになった。

【19】 前編のあとがき
 「富貴」という女装クラブについて書いてみたらと言われた。老年と言われる年になったし、20世紀の終わる年でもあるし、35年に渉る「もう一人の私」の歴史でもあるし、憶いつくままにペンを走らせてみたが、何となくダラダラとしてしまって、取り止めのない自伝の如きものになってしまった。
 まだまだこれから、中野のマンションに移ってからの方が長いので、このノートの続きを書かなくてはならない羽目になったが、始めた以上は仕方のないことだろう。世間一般に見てもらうのではなく、同好の士の眼に止まることであろうから、できるだけ赤裸々に書いていこうと思っている。
 書き手が無名ではいけないので、「富貴」の西塔会長のペンネーム「鎌田意好(かまだいすき)」に真似て、最初の出発点が成子坂下でもあったので「成子素人(なるこそじん」とした。ナルシストとも読ませる心算である。
 私は女装をしようとする者の全てが、ナルシストであると思っている。女装はしても「遊び」などしない人もいるから、男性とのセックスが目的なのではない。化粧の魔力により男が女の容貌に変わっていき、女の衣裳によって嘘のように華やかに変身した自分へのナルシシズムが女装の魅力などである。それは、一度この道に入ったら抜け出すことなどできない強烈な魅力なのだ。
 近ごろの女性は若々しく、年齢を聞いてみて驚く程の人がいるのは、人々の生活が豊かになったせいでもあろう。通りすがりに振り返る程の美人にはなかなかお眼にかからないものの、それぞれにまあ十人並の容貌に見せる化粧をしている人が多くなった。小綺麗になったのは誰にとっても悪いことではない。
 こちらにしても、女姿になる時は、年に関係なく、思い切った若作りにして、「きれいよ」って言われたいし、派手な衣裳に厚化粧の女姿が元々好みでもあるのだから、できる限りいつまでも、この幻想の世界に遊ぶことができたらいいと思っている。


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